ことを秋山もよく知っていた。
「そこで、あとのことは藤次郎にあずけて来ましたが、どうでしょう。」と、奥野は秋山の顔色をうかがいながら言った。
「それでよかろう。」
手先の藤次郎は初めからこの事件に係り合っている上に、平生から相当の腕利きとして役人たちの信用もあるので、秋山も彼にあずけて置けば大丈夫であろうと思った。そこで今後の処置は藤次郎の探索の結果を待つことにして、奥野はひとまず別れて帰った。
ゆうべの雨は暁け方からやんだが、きょうも一日曇り通して薄ら寒い湿っぽい夜であった。奥野が帰ったあとで、秋山は又もや机にむかって、あしたの吟味の調べ物をしていると、屋根の上を五位鷺《ごいさぎ》が鳴いて通った。
かれは自分がいま調べている仕事よりも、伊兵衛殺しの一件の方が気になってならなかった。事件そのものが重大であるというよりも、幽霊の仮装を使って自分をだまそうとした彼らの所業が忌々《いまいま》しくてならないのである。
土地の奴らをだますのはともあれ、自分までも一緒にだまそうというのは、あまりに上《かみ》役人を侮った仕方である。一日も早く彼らの正体を見あらわして、ぐうの音も出ないように退治付けてやらなければ、自分の胸が納まらないのであった。
「おれはひどく燥《あせ》っているな。」
かれは自ら嘲るように笑った。いかなる場合にも冷静である筈の自分が、今度の事件にかぎって燥り過ぎるのはどういうわけであるか。忌々しいからといって無暗にあせるのは、あまりに素人じみているのではないか。こんなことで八丁堀に住んでいられるかと、秋山は努めてかの一件を忘れるようにして、他の調べ物に取掛ったが、やはりどうも気が落ちつかなかった。
そうして、今にも藤次郎が表の門をたたいて、何事をか報告して来るように思われてならないので、今夜も家内の者を先へ寝かして、秋山は夜のふけるまで机の前に坐り込んでいた。寝床にはいったところで、どうで安々と眠られまいと思ったからである。
そのうちに本石町《ほんこくちょう》の九つ(午後十二時)の鐘の音が沈んできこえた。五位鷺がまた鳴いて通った。
秋の夜が長いといっても、もう夜半《よなか》である。少しは寝ておかなければ、あしたの御用に差支えると思って、秋山も無理に寝支度にかかり始めると、表で犬の吠える声がきこえた。つづいて門をたたく者があった。秋山は待ちかねたように飛んで出て、中間や下女を呼び起すまでもなく、自分で門を明けにゆくと、細かい雨がはらはら顔を撲《う》った。暗い門の外には奥野と藤次郎が立っていた。
藤次郎はまず奥野の門をたたいて、それから二人で連れ立って来たものらしい。秋山はすぐに彼らを奥へ通すと、奥野は急いで口を切った。
「どうも案外な事件が起りました。」
「どうした。やっぱり柳島の一件か。」と、秋山もすこしく胸を跳らせながら訊いた。
「そうでございます。」と、藤次郎が入れ代って答えた。「奥野の旦那がお引揚げになってから、わたくしは亀屋のそばの柳屋という家に張込んでいました、伊八の奴はそこへたびたび飲みに行くことを聞いたからです。おとといもきのうも来なかったから、今夜あたりは来るだろうというので、わたくしも客のつもりで小座敷に飲んでいました。亀屋は二階屋ですが、柳屋は平屋《ひらや》ですから、表の見えるところに陣取っていると、もう五つ(午後八時)頃でしたろうか、頬かむりをした一人の男が柳屋の店の方へぶらぶらやって来ました。どうも伊八らしいと思って家の女中にきいて見ると、たしかにそうだと言うので、油断なく見張っていると、伊八は柳屋の前まで来たかと思うと、又ふらふらと引っ返して行きます。こいつおれの張込んでいるのを覚ったのかと、わたくしも直ぐに起《た》ち上がって表をのぞくと、近所の亀屋の店口からも一人の女が出て来ました。その女はお園らしいと見ていると、伊八とその女は黙って歩き出しました。」
言いかけて、彼は頭をかいた。
「旦那方の前ですが、ここでわたくしは飛んだドジを組《く》んでしまって、まことに面目次第もございません。それから私が直ぐに跡をつけて行けばよかったのですが、柳屋は今夜が初めてで、わたくしの顔を識らねえ家ですから、むやみに飛び出して食い逃げだと思われるのも癪にさわるから、急いで勘定を払って出ると、あいにく又、日和下駄《ひよりげた》の鼻緒が切れてしまいました。」
秋山は笑いもしないで聴いていると、藤次郎はいよいよ極りが悪そうに言った。
「さあ、困った。仕方がねえから柳屋へまた引っ返して、草履を貸してくれというと、むこうでは気を利かしたつもりで日和下駄を出してくれる。いや、雨あがりでも草履の方がいいという。そんな押問答に暇をつぶして、いよいよ草履を突っかけて出ると、これがまた鼻緒がゆるんでいて、馬鹿に歩き
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