と、秋山は言った。
 奥野も笑いながら出て行った。
 その日の町奉行所に甚吉の吟味はなかった。秋山は他の事件の調べを終って、いつもの通りに帰って来ると、夜になって奥野が彼の四畳半に顔をみせた。彼はひとりの手先を連れて、柳島方面へ探索に行って来たのである。秋山は待ちかねたように訊いた。
「やあ、御苦労。どうだ、なにか面白い種が挙がったかな。」
「まず伊兵衛の家へ行って、おやじの助蔵を調べてみました。」と、奥野は答えた。「すると、どうです。助蔵の家《うち》へも幽霊のようなものが出て、――勿論その姿は見えないのですが、やはり伊兵衛の声で、下手人の甚吉は人違いだというような事を言ったそうです。」
「仕様のねえ奴だな。」と、秋山は舌打ちした。「どこまで人を馬鹿にしやがるのだ。それで、助蔵の家の奴らはどうした。」
「あいつらのことですから、勿論ほんとうに思っているようです。いや、助蔵の家ばかりでなく、往来でもその声を聞いた者があるそうです。あの辺の町家の女がひとり、百姓の女が一人、日が暮れてから町境いの川のふち――伊兵衛が殺されていた所です。――そこを通りかかると、暗い中から伊兵衛の声で……。女共はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]といって逃げ出したそうです。そんなわけで、あの辺では幽霊の噂が一面にひろがって、誰でも知らない者はないくらいです。」
「そこで、貴公の鑑定はどうだ。そんな芝居をするのは、甚吉の家の奴らか、伊兵衛の家の奴らか。」と、秋山は訊いた。
「そこです。」と、奥野は一と膝すすめた。「あなたの鑑定通り、どうでその幽霊は偽者《にせもの》に相違ありませんが、わたくしも最初は甚吉の家の奴らだろうと思っていました。甚吉の家は物持ちですから、金をやって誰かを抱き込んで、こんな芝居をさせていることと睨んだのですが、だんだん詮議してみると、どうも助蔵の方が怪しいようです。」
「それは少しあべこべのようだが、そんなことが無いともいえねえ。いったいその助蔵というのはどんな奴だ。」
「助蔵は生れ付きの百姓で、薄ぼんやりしたような奴ですが、女房のおきよというのはなかなかのしっかり者で、十八の年に助蔵のところへ嫁に来て、そのあくる年に伊兵衛を生んで、今年ちょうど四十になるそうです。ところで、御承知かも知れませんが、伊兵衛は総領で、その下に伊八という弟があります。伊八は兄貴と二つ違いで、ことし二十歳《はたち》になります。」
「むむ。」
 秋山はうなずいた。兄弟であれば、声も似ている。弟の伊八が作り声をして、兄の幽霊に化けているということはもう判り過ぎるほどに判ってしまった。気の短い秋山はすぐに伊八を引挙げて、手ひどく嚇《おど》しつけてやりたいようにも思ったが、彼はもう四十を越している。多年の経験上|急《せ》いては事を仕損じるの実例をもたくさんに知っているので、しばらく黙って奥野の報告を聴いていると、相手はつづけて語り出した。
「おふくろのおきよは、今もいう通りのしたたか者ですから、今さら甚吉を下手人にして見たところで、死んだ伜が生き返るわけでもないので、慾にころんで仇の味方になって、甚吉は人違いであるということを世間へ吹聴《ふいちょう》すれば、それが自然に上《かみ》の耳にもはいると思って、偽幽霊の狂言をかいたらしいのです。無論それには甚吉の親たちから纒まった物を受取ったに相違ありますまい。弟の伊八という奴も、兄貴と同じような道楽者で、小博奕《こばくち》なども打つといいますから、兄貴の死んだのを幸いに、おふくろと一緒になってどんな芝居でもやりかねません。近所の者の話によると、伊兵衛と伊八は兄弟だけに顔付きも声柄もよく似ているということです。」
「それからお園という女も調べたか。」
「天神橋の亀屋へ行って、お園のことを訊いてみると、お園は伊兵衛が殺されても、甚吉が挙げられても、一向平気ではしゃいでいるそうです。もちろん一応は取調べてみましたが、今度の一件に就いてはまったく何にも知らないらしく、甚吉も伊兵衛も座敷だけの顔馴染みで、ほかに係合いはないと澄ましていましたが、それは嘘で、どっちにも係合いのあったことは、亀屋の家も、みんな知っていました。一体だらしのない女で、ほかにもまだ係合いの客があるとかいう噂です。年は二十二だといいますから、甚吉や伊兵衛と同い年で、容貌《きりょう》はまんざらでもない女でした。」
「それだけで伊八とおきよを引挙げては、まだ早いかな。」と、秋山はかんがえながら言った。
「そうですね。」と、奥野も首をかしげた。「もう大抵は判っているようなものですが、何分にも確かな証拠が挙がっていませんから、下手なことをしてしまうと、あとの調べが面倒でしょう。」
 こっちに確かな証拠を掴んでいないと、相手が強情者である場合には、その詮議がなかなか面倒である
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