にくい。それでもまあ我慢して、路の悪いところを飛びとびに……。」
「まったくあの辺は路が悪いな。」と、奥野は彼を取りなすように言った。
「御存じの通りですから、実に歩かれません。」と、藤次郎も言訳らしく言った。「おまけに真っ暗と来ているので、今の二人はどっちの方角へ行ったのか判らなくなってしまいました。それでもいい加減に見当をつけて、川岸づたいに歩いて行くと、あすこに長徳院という寺があります。その寺門前の川端をならんで行くのが、どうも伊八とお園のうしろ姿らしいのです。」
「暗やみで能くそれが判ったな。」と、秋山はなじるように訊いた。
「あとで考えると、それがまったく不思議です。そのときには男と女のうしろ姿が暗いなかにぼんやりと浮き出したように見えたのです。」
「ほんとうに見えたのか。」
「たしかに見えました。」
 藤次郎は小声に力をこめて答えたが、その額には不安らしい小皺《こじわ》が見えた。

     三

「それじゃあ仕方がねえ。その暗いなかで二人の人間の姿がみえたとして、それからどうした。」と、秋山は催促するように又訊いた。
「わたくしは占めたと思って、そのあとを付けて行きました。」と、藤次郎は答えた。「伊八とお園は長徳院の前から脇坂の下《しも》屋敷の前を通って柳島橋の方へ行く。川岸づたいの一本道ですから見はぐる気づかいはありません。あいつら一体どこへ行くのか、妙見《みょうけん》さまへ夜詣りでもあるめえと思いながら、まあどこまでも追って行くと……。それがどうも不思議で、いつの間にか二人の姿が消えてしまいました。」
「馬鹿野郎。狐にでも化かされたな。」と、秋山は叱った。
「そういわれると、一言もないのですが、まさかにわたくしが……。」
「貴様は酒に酔っていたので、狐にやられたのだ。江戸っ子が柳島まで行って、狐に化かされりゃあ世話はねえ。あきれ返った間抜け野郎だ。ざまあ見ろ。」
 秋山は腹立ちまぎれに、頭からこき下ろした。
 その権幕が激しいので、奥野も取りなす術《すべ》もなしに黙っていると、藤次郎はいよいよ恐縮しながら言った。
「まあ、旦那。お聴きください。今もいう通り、よくよく考えてみると、暗いなかで見えたのが不思議で、見えない方が本当なのですから、わたくしも今さら変な心持になりました。ひょっとすると、畜生めらにやられたのじゃあないかと、眉毛を濡らしながらそこらを見まわしても、あたりは唯まっくらで、なんにも見えません。」
「あたりめえよ。」と、秋山は又叱った。
「仕方がなしにすごすご引揚げて、もとの長徳院のあたりまで帰って来ると、なにかそこらがそうぞうしくって、大勢が駈けて行くようですから、ボヤでも出しゃあがったかと思って、通りがかりの者に訊いてみると、いやどうも驚きました。町と村との境いにある小川のふちに、助蔵のせがれの伊八が斬られて死んでいるというのです。わたくしも呆気《あっけ》に取られながら、すぐに其の場へ飛んで行くと、伊八はまったく死んでいました。近所の者が集まってわやわや言っているのを掻き分けて、その死骸をあらためてみると、伊八は鎌のようなもので頸筋を斬られているのです。兄貴も鎌で殺され、弟も同じような刃物で斬られている。しかもその死んでいる場所が、兄貴の殺されたのと同じ所だというので、みんなも不思議がっているのです。その知らせに驚いて、助蔵の夫婦もかけつけて来ましたから、わたくしは其の女房のおきよを取っ捉まえて、本人の家へ引摺って行ってきびしく取調べると、幾らかしっかり者でもさすがに気が顛倒しているとみえて、案外にすらすらと白状してしまいました。
 やっぱり旦那方の御鑑定通り、伊兵衛を殺したのは甚吉の仕業と判っているのですが、今さら甚吉を科人《とがにん》にしたところで、死んだ我が子が生き返るわけでもないから、いっそ慾にころんだ方が優《ま》しだと考えて、甚吉の家から三百両の金を貰って、弟の伊八を幽霊に仕立てたのだそうです。それでまず幽霊の正体はわかったが、さて今度は伊八の下手人です。」
「甚吉の家の奴らだろうな。」と、秋山は啄《くち》をいれた。
「誰もそう考えそうなことで、現におきよもそう言っていました。」と、藤次郎は答えた。「おきよはその三百両のうちから五十両だけを伊八に渡して、あとは裏手の空地に埋めてしまったそうです。伊八は又、その五十両を女と博奕でたちまち摺ってしまって、残りの金をわたしてくれと強請《ゆす》っても、おふくろは気が強いからなかなか受付けない。そこで、伊八は甚吉の家の方へねだりに行く。それが二度も三度もつづくので、甚吉の家でもうるさくなって、秘密を知っている伊八を生かして置いては一生涯の累《わずら》いだから、いっそ亡き者にしてしまえと、誰かに頼んで殺させたに相違ないと、おきよは泣いて訴えるので
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