の人車《くるま》が門前に停まったらしいので、私たちは急いで出迎えに行った。
それから又、十年の月日が夢のように過ぎた。いわゆる十年ひと昔で、そのあいだには世間の上にも、一身の上にも、種々の変遷を経て来たが、就中《なかんずく》わたしに取って最も悲しい記憶は、大正十一年の秋に江波先生を失ったことであった。酒を飲まない先生が脳溢血のために、書斎で突然|仆《たお》れたのである。わたしは大連でその電報を受取ったが、何分にも遠く懸け離れているので、単に弔電を発したにとどまって、その葬儀にもつらなることが出来なかった。
次はその翌年九月の関東大震災である。わたしの知人でその災厄に罹かった者も多かった。東京の本社も焼かれた。その際にもまず気配《きづか》われたのは、亡き先生一家の消息であったが、根津の辺はすべて無事ということを知り、さらに奥さんもお嬢さん夫婦もみな無事という便りを得て、まず安堵《あんど》の胸を撫《な》でおろしたのであった。
しかし、かの桐沢氏は、その当時あたかも鎌倉の別荘に在った為に、無残の圧死を遂げたという。わたしは桐沢氏と直接の交渉もなく、従来一面識もないのであるが、次郎君が
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