がなんと仰しゃっても、桐沢さんがなんと言っても、多代子は連れて帰ります。」と、彼はきっぱりと言い切った。その顔色のいよいよ蒼ざめて来たのが、わたしの注意をひいた。
「それにしても、まあ少しお待ちなさい。もうやがて良人も帰って来ましょうから。」と、奥さんはなだめるように言った。そうして、その話題を転ずるように、改めて私を彼に紹介したが、彼はやはり私を記憶していないらしかった。
 わたしは笑いながら言い出した。
「あなたにはお目にかかった事がありますよ。山陽線の汽車の中で……。」
「山陽線の汽車の中で……。」
「蛇の騒ぎがあった時に……。」
 こう言って、わたしはその顔色を窺うと、彼も睨《にら》むように私の顔をじっと見つめていたが、やがて漸く思い出したように、少しくその顔色をやわらげた。
「いや判りました。その節はどうも失礼をいたしました。あなたもここの先生の家へお出入りをなさる方とはちっとも知りませんでした。いや、今夜も少し気が急《せ》いていましたので、どうも失礼をいたしました。」
 彼は繰返して失礼を謝していた。わたしも若いが、彼はさらに若い。一時の亢奮から、なんとなく穏やかならぬ気色
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