…。」
奥さんがこう言いかけた時に、階子《はしご》をあがって来る足音がひびいた。と思う間もなく、、襖《ふすま》の外から若い男の声がきこえた。
「奥さん、御来客中をまことに失礼ですが……。」
「あ、透さん。いつお出でなすったの。」と、奥さんは見返った。「構いません。おはいりなさい。」
襖をあけて、電燈の下に蒼白い顔をあらわしたのは、学生風の青年であった。私はその青年をひと目見て、彼が多代子の兄の三好透であることを直ぐに覚ったが、相手の方ではもう私を見忘れているらしかった。殊に今夜の彼はひどく亢奮《こうふん》しているらしく、私に向ってはなんの会釈もせずに、突っ立ったままで奥さんに話しかけた。
「奥さん。妹はあしたの朝の汽車で連れて帰ります。」
「あしたの朝……。多代子さんも承知したのですか。」
「承知しても、しないでも、直ぐに連れて帰ります。」と、彼は奥さんに食ってかかるように声をとがらせた。
「まあ、おかけなさい。」と、奥さんは逆らわずに椅子をすすめた。「どうしてそんなに急に帰ることになったのです。実はそのことで、良人《うち》は今夜桐沢さんのところへ行っているのですが……。」
「先生
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