いて、わたしも七月の初めには再び門司の支店へ帰ることになったので、先生のところへ暇乞いにゆくと、あいにくに今夜も先生は留守であった。梅雨《つゆ》のまだ明け切らない曇った宵である。こんな晩に先生はどこへ行かれたかと訊《たず》ねると、奥さんは小声で答えた。
「桐沢さんのところへ呼ばれて行ったのです。」
「桐沢さん……。」
「あなたも御存じでしょう。」
「お名前だけは承知しています。」と、わたしは言った。桐沢氏は知名の実業家で、その次男は大学の文科に籍を置いている。それが将来は先生のお嬢さんの婿になるという内約のあるらしいことは、わたしも薄々知っていた。そういう事情から、桐沢氏は多代子のような若い娘を自分の家にあずかって置くのは、先生夫婦の思惑もいかがという遠慮から、わざと自宅に寄宿させることを避けて、反対に彼女を先生のところへ預けることになったらしい。それは私も薄々察していたが、その桐沢という人にも、又その次男という人にも、これまで懸け違って一度も出逢ったことはなかったのである。
 そういう訳であるから、外出嫌いの先生が今夜のような晩に桐沢氏を訪問したのも、別に怪しむにも足らないのであった
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