見たことがあるように思っていました。」
「どこかでお逢いなすったことがあるのですか。」と、奥さんは再び笑いながら訊いた。
「はあ。山陽線の汽車のなかで……。そのときは兄さんらしい人と一緒でした。」
わたしは先年のことを簡単に話した。しかしどんな当り障りがあるかも知れないと思ったので、蛇の一件だけは遠慮してなんにも言わなかった。
「むむ、多代子さんは兄さんと一緒に相違あるまいが……。」と、先生は重い口で私にからかった。「君は誰と一緒に乗っていたかな。多代子さんに賄賂《わいろ》でも使って置かないと、飛んでもないことを素っ破抜かれるぜ。」
奥さんも私も笑い出した。
多代子はFの町の近在の三好という豪農のむすめで、兄の透《とおる》という青年と一緒に上京して、ある女学校に通っている。先生は三好の家と特別の関係があるわけでもないが、ある知人から頼まれて、多代子だけを預かって監督している。先生の家にも多代子と同年の娘があって、おなじ女学校に通っているので、旁々《かたがた》その世話をしてやることになったのである。兄の透はこの近所の植木屋の座敷を借りて、そこから通学している。これだけのことは奥さん
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