だに、わたしは江波先生をしばしば訪ねた。
先生は法学博士で、わたしが大学に在学中はいろいろのお世話になったことがある。その住宅は本郷の根津権現に近いところに在って、門を掩《おお》うている桜の大樹が昔ながらに白く咲き乱れているのも嬉しかった。第一回の訪問は四月の第一日曜日であったと記憶しているが、先生も奥さんもみな壮健で、二階の十畳の応接室へ通された。そこは日本の畳の上に絨緞《じゅうたん》を敷いて、椅子やテーブルを列《なら》べてあるのであった。
やがて若い女が茶を運んで来た。奥さんが自身に菓子鉢を持って来た。若い女はすぐに立去ったが、奥さんは先生とわたしに茶をついでくれた。
「あの方はお家《うち》のお嬢さんじゃありませんな。」と、わたしは訊いた。
「娘じゃありません。」と、奥さんは笑いながら答えた。「娘は少し風邪を引いて二、三日前から寝ています。あの人は多代子さんといって、よそから預かっているのです。」
「多代子さん……。もしやあの方は広島県の人じゃありませんか。Fの町の……。」
「ええ。」と、奥さんは先生と顔を見合せた。「よく御存じですね。」
「じゃあ、やっぱりそうでしたか。どうも
前へ
次へ
全57ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング