かった。自殺と見せかけて、実は他殺ではないかという疑いもあったが、前後の状況に因《よ》って、それが他殺でないことだけは確かめられた。
その新聞記事があらわれてから半月あまりの後に、わたしは某所で西島君に逢った。彼は若いときから某物産会社の門司支店や大連支店に勤めていて、震災以後東京へ帰って来たのである。その西島君が今度の深見夫人の一件について、こんな怪談めいたことを話した。
あれは日露戦争の前年と覚えている。その頃わたしは門司支店に勤めていて、八月下旬の暑い日の午前に、神戸行きの上り列車に乗っていた。社用でゆうべは広島に一泊して、きょうは早朝に広島駅を出発したのである。ことわって置くが、その頃のわたしはまだ学校を出たばかりの新参者で、二等のお客さまとして堂々と旅行する程の資格をあたえられず、三等列車に乗込んでいたのであった。
鉄道がまだ国有にならない時代で、神戸―下関間は山陽鉄道会社の経営に属していた。この鉄道は乗客の待遇に最も注意を払っているというのをもって知られていたので、三等室でも決して乗り心《ごころ》は悪くない。殊に三十五銭の上等弁当のごときは、我れわれのような学生あが
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