の人車《くるま》が門前に停まったらしいので、私たちは急いで出迎えに行った。

 それから又、十年の月日が夢のように過ぎた。いわゆる十年ひと昔で、そのあいだには世間の上にも、一身の上にも、種々の変遷を経て来たが、就中《なかんずく》わたしに取って最も悲しい記憶は、大正十一年の秋に江波先生を失ったことであった。酒を飲まない先生が脳溢血のために、書斎で突然|仆《たお》れたのである。わたしは大連でその電報を受取ったが、何分にも遠く懸け離れているので、単に弔電を発したにとどまって、その葬儀にもつらなることが出来なかった。
 次はその翌年九月の関東大震災である。わたしの知人でその災厄に罹かった者も多かった。東京の本社も焼かれた。その際にもまず気配《きづか》われたのは、亡き先生一家の消息であったが、根津の辺はすべて無事ということを知り、さらに奥さんもお嬢さん夫婦もみな無事という便りを得て、まず安堵《あんど》の胸を撫《な》でおろしたのであった。
 しかし、かの桐沢氏は、その当時あたかも鎌倉の別荘に在った為に、無残の圧死を遂げたという。わたしは桐沢氏と直接の交渉もなく、従来一面識もないのであるが、次郎君がお嬢さんと結婚しているばかりか、かの三好家の一件についてしばしばその名を聞き慣れているので、その死に対してやはり一種の衝動《ショック》を感ぜずにはいられなかった。
 震災の翌年、すなわち大正十三年の夏から、わたしは東京の本社詰めとなって大連を引揚げて来た。そうして、根津とは余り遠くない本郷台に住居を定めたので、先生の旧宅へも毎月一回ぐらいは欠かさずに訪問して、奥さんの昔話の相手になることが出来るようになった。
 深見夫人多代子の亡骸《なきがら》が熱海の海岸に発見されたのは、その翌年の一月である。
 前にもいう通り、家庭も極めて円満で、精神的にも物質的にも大いに恵まれていたらしく思われた多代子が、突然にこうした悲劇の女主人公となってしまったのは、実に意外というのほかはない。それに就いて種々の臆説が生み出されるのは無理もなかった。
 あるいは発狂ではあるまいかという噂もあったが、奥さんは私にむかってそれを否定していた。
「多代子さんは一月の十日、自動車に乗って御年始に来てくれました。その時に、この二十日ごろから熱海へ行くという話があって、今度は長く滞在することになるかも知れないから、当分は
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