お目にかかれまいと言って帰りました。あとで考えると、よそながら暇乞いに来たらしい。それを思うと、突然の発狂などではなくて、前々から覚悟していたのでしょう。その日はあいにくに、次郎も娘も留守だったものですから、皆さんにお目にかかれないのが残念だなどとも言っていました。」
 奥さんは更にこんなことを私に洩らした。
「あなただからお話を申しますけれど、多代子さんの死骸が海から引揚げられた時に、警察で検視をすると、左の二の腕に小さい蛇の刺青《ほりもの》があったので、みんなも不思議に思ったそうです。立派な実業家の奥さんの腕に刺青があったのですから、誰でも意外に思う筈です。勿論、深見さんの方から警察へ頼んだので、刺青のことなぞは一切《いっさい》発表されませんでしたから、その秘密を知っているのは私たちぐらいでしょう。新聞社でもさすがに気がつかないようでした。」
「多代子さんはいつそんな刺青をしたんでしょう。」と、わたしも意外に思いながら訊いた。
「それは判りません。」と、奥さんは答えた。「わたしの家にいるときに、そんな刺青のなかったのは確かですから、深見さんへ縁付いてからのことに相違ありませんが、それを深見さんが彫らせたのか、自分が内証で彫ったのか、それは一切秘密です。深見さんもそれに就いては何も言いません。なにしろ深見さんはK町の出身で、それと結婚した多代子さんが訳のわからない死に方をして、その腕に蛇の刺青が発見されたというのですから、いろいろのことが又思い出されます。多代子さんの郷里の実家は両親ともに死んでしまって、総領の息子さんが――台湾で死んだ透さんの兄です。――相続しているのですが、こちらから多代子さんの死んだことを電報で知らせてやると、都合があって上京できないから、万事よろしく頼むという返事をよこしました。」



底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「日曜報知」
   1930(昭和5)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくってい ます。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作
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