見たことがあるように思っていました。」
「どこかでお逢いなすったことがあるのですか。」と、奥さんは再び笑いながら訊いた。
「はあ。山陽線の汽車のなかで……。そのときは兄さんらしい人と一緒でした。」
 わたしは先年のことを簡単に話した。しかしどんな当り障りがあるかも知れないと思ったので、蛇の一件だけは遠慮してなんにも言わなかった。
「むむ、多代子さんは兄さんと一緒に相違あるまいが……。」と、先生は重い口で私にからかった。「君は誰と一緒に乗っていたかな。多代子さんに賄賂《わいろ》でも使って置かないと、飛んでもないことを素っ破抜かれるぜ。」
 奥さんも私も笑い出した。
 多代子はFの町の近在の三好という豪農のむすめで、兄の透《とおる》という青年と一緒に上京して、ある女学校に通っている。先生は三好の家と特別の関係があるわけでもないが、ある知人から頼まれて、多代子だけを預かって監督している。先生の家にも多代子と同年の娘があって、おなじ女学校に通っているので、旁々《かたがた》その世話をしてやることになったのである。兄の透はこの近所の植木屋の座敷を借りて、そこから通学している。これだけのことは奥さんの説明によって会得《えとく》することが出来た。多代子はことし十九で、容貌《きりょう》は見る通りに美しく、性質も温順で、学業の成績もよいので、まことに世話甲斐があると先生夫婦も楽しんでいるらしい口ぶりであった。
 奥さんが降りて行った後に、先生とわたしは差向いで二時間ほども話した。先生は午飯《ひるめし》を食ってゆけと言われたが、わたしは他に廻るところがあるので、又お邪魔に出ますと言って二階を降りると、奥さんは多代子を連れて出て来た。
「もうお帰りですか。では、ここで改めて多代子さんを御紹介しましょう。」
 彼女は果たしてわたしの顔を記憶していたかどうか知らないが、ともかくも型のごとくに挨拶《あいさつ》して別れた。先年はまだ少女といってもよかった多代子が、今は年ごろの娘に成長して、さらにその美を増したように見えた。その白い艶《あで》やかな顔には、先年見たような暗い蒼ざめた色を染め出していなかった。春風の吹く往来へ出て、わたしもなんだか一種の愉快を感じながら歩いた。
 二回目に先生を訪問したのは四月の末で、その日は平日《へいじつ》であったので通学中の多代子さんは見えなかった。先生のお嬢さんも
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