病気が全快して一緒に学校へ出て行ったとの事であった。
第三回の訪問は五月のなかばの日曜日で、わたしは午後七時ごろに上野行きの電車を降りると、博覧会は夜間開場をおこなっているので、広小路付近はイルミネーションや花瓦斯《はなガス》で昼のように明るかった。そこらは自由に往来が出来ないように混雑していた。
わたしはその賑わいを後ろにして池《いけ》の端《はた》から根津の方角へ急いだ。その頃はまだ動坂《どうざか》行きの電車が開通していなかったので、根津の通りも暗い寂しい町であった。路ばたには広い空地などもあって、家々のまばらな灯のかげは本郷台の裾に低く沈んでいた。わずかの距離で、上野と此処《ここ》とはこんなにも違うものかと思いながら、わたしは宵闇の路をたどってゆくと、やがて団子坂の下へ曲ろうとする路ばたの暗いなかで、突然にきゃっ[#「きゃっ」に傍点]という女の悲鳴が聞えたので、わたしは持っているステッキを把《と》り直して、その声をしるべに駈け出すと、出逢いがしらに駈けて来る一人の男があった。あぶなく突き当ろうとするのを摺りぬけて、彼はどこへか姿を隠してしまった。月はないが、星は明るい。少しく距《はな》れたところには煙草屋の軒ランプがぼんやりと点《とも》っている。その光りをたよりに透かしてみると、草原つづきの空地を横にした路ばたに、二人の女の影が見いだされた。
「どうかなすったんですか。」と、わたしは声をかけたが、女たちはすぐに答えなかった。
かれらの悲鳴を聞いて駈け付けたらしい、わたしに続いて巡査の角燈《かくとう》の光りがここへ近寄った。女は先生のお嬢さんと多代子の二人で、多代子はぐったりと倒れかかるのを、お嬢さんがしっかりと抱えているのである。それを見てわたしは又驚いた。
巡査の取調べに対して、お嬢さんは答えた。二人は根津の通りへ買物に出て、帰り路にここまで来かかると、空地の暗いなかから一人の男があらわれて、多代子の頸《くび》へ何かを投げつけたというのである。巡査は更に訊いた。
「なにを投げ付けたのですか。」
「蛇です。」と、多代子は低い声で答えた。
蛇と聞いて、巡査もお嬢さんも顔をしかめたが、わたしは更に強い衝動を感じた。多代子と蛇と――先年の汽車中の光景が忽《たちま》ちわたしの眼の先に浮かび出したのである。巡査は角燈を照らしてあたりを見廻すと、草のなかに果たして
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