車外をながめていた。
岡山でわたしは例のごとくに弁当を買った。かの兄妹も買った。その以外に、かれらの行動について私の記憶に残っているようなことはなかった。私はきょうも神戸で降りた。兄妹も下車した。かれらはおそらく新橋行きの列車に乗換えたのであろう。その後のことは勿論わたしに判ろう筈もなかった。
その翌年には日露戦争が始まって、わたしの勤めている門司支店は非常に忙がしかった。それが済むと、すばらしい好景気の時代が来た。明治四十年の四月、わたしは社用を帯びて上京して、約三ヵ月ばかりは東京の本社の方に詰めていることになった。
なにしろ久し振りで東京へ帰って来たのである。時は四月の花盛りで、上野には内国勧業博覧会が開かれている。地方からも見物の団体が続々上京する。天下の春はほとんど東京にあつまっているかと思われるような賑わいのなかに、わたしも愉快な日を送っていた。
しかし遊んでばかりはいられない。わたしは毎日一度はかならず出社する以外に、東京にある親戚や先輩や友人をたずねて、平素の無沙汰ほどきをしなければならないので、働くと遊ぶの暇をみて諸方へ顔出しをすることも怠らなかった。そのあいだに、わたしは江波先生をしばしば訪ねた。
先生は法学博士で、わたしが大学に在学中はいろいろのお世話になったことがある。その住宅は本郷の根津権現に近いところに在って、門を掩《おお》うている桜の大樹が昔ながらに白く咲き乱れているのも嬉しかった。第一回の訪問は四月の第一日曜日であったと記憶しているが、先生も奥さんもみな壮健で、二階の十畳の応接室へ通された。そこは日本の畳の上に絨緞《じゅうたん》を敷いて、椅子やテーブルを列《なら》べてあるのであった。
やがて若い女が茶を運んで来た。奥さんが自身に菓子鉢を持って来た。若い女はすぐに立去ったが、奥さんは先生とわたしに茶をついでくれた。
「あの方はお家《うち》のお嬢さんじゃありませんな。」と、わたしは訊いた。
「娘じゃありません。」と、奥さんは笑いながら答えた。「娘は少し風邪を引いて二、三日前から寝ています。あの人は多代子さんといって、よそから預かっているのです。」
「多代子さん……。もしやあの方は広島県の人じゃありませんか。Fの町の……。」
「ええ。」と、奥さんは先生と顔を見合せた。「よく御存じですね。」
「じゃあ、やっぱりそうでしたか。どうも
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