叔父と甥と
――甲字楼日記の一節――
岡本綺堂
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)嫩会《ふたばかい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)秋|闌《たけなわ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから3字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まざ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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大正九年十月九日、甥の石丸英一逝く。この夜はあたかも嫩会《ふたばかい》の若き人々わが家にあつまりて劇談会を催す例会の夕《ゆうべ》なりしかば、通知するまでもなく皆々来りあつまる。近親の人々もあつまりて回向《えこう》す。英一は画家として世に立つべき志あり。ことしの春に中学を卒《お》えたれば、あくる年の春には美術学校の入学試験をうけんといい、その準備のために川端画学校に通いいたるに、かりそめの感冒が大いなる禍《わざわい》の根を作りて、夏の盛りを三月あまりも病《や》み臥《ふ》して、秋|闌《たけなわ》ならんとする頃に遂に空しくなりぬ。今更ならねど、若き者の世を去るは一入《ひとしお》悲しきが常なり。殊《こと》に姉の児とはいいながら、七歳の頃よりわが手許《てもと》にありたるものが、今やたちまちに消えてゆく。取残されたる叔父の悲《かなし》み、なかなかにいい尽すべくもあらず。小林蹴月《こばやししゅうげつ》君も訃音《ふいん》におどろかされて駈け付け、左の短尺《たんざく》を霊前に供えられる。
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今頃は三途の秋のスケッチか 蹴月
書きさしの墨絵の月やきり/″\す 同
露ほろり茶の花ほろり零れけり 同
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われも香の烟《けむり》に咽《むせ》びつつ、おなじく短尺の筆を取る。手はおののきて筆の運びも自在ならず。
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寂しさは絵にもかかれず暮の秋
あきらめは紋切形の露の世や
絵を見れば絵も薄墨や秋の花
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十二日、青山墓地にて埋葬のこと終る。この日は陰《くも》りて雨を催せり。
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青山や花に樒に露時雨
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十五日は初七日、原田春鈴君来りて、その庭に熟したりという枝柿を霊前に供えらる。
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まざ/\と柿食うてゐる姿かな
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この日、額田六福《ぬかだろっぷく》の郷里よりも霊前にとて松茸一籠を送り来る。
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初七日や松茸飯に豆腐汁
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家内の者ども打連れて青山へ墓参にゆく。この夕、眠られず。
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こほろぎや人になかせて夜もすがら
憎い奴め叔父を案山子に残せしよ
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十六日、午後より青山へ墓参にゆく。うららかに晴れたる日なり。英一の墓前には大村嘉代子が美しき草花を供えてあり。その花の香を慕いて、弱れる蝶一つたよたよと飛ぶ。
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なくは我なかぬおのれや秋の蝶
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十八日、英一の机本箱を整理す。書きさしの下絵などを見出すにつけて、また新しき涙を誘わる。形見としてその二つ三つを取納め、余は引き裂きて庭に持ち出で、涙の種をことごとく烟とす。
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かき寄せて焚くや紅絵の散紅葉
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十九日、庭の立木に蝉の止まりて動かぬを見る。試みに手を触るればからからと音して地に墜ちたり。かれは已《すで》に殻ばかりとなりけるよと思うにつけて、英一の死のまた今更に悲しまる。
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地に墜ちて殻ばかりなり秋の蝉
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二十四日、嫩会の人々打ちつれて青山へまいる。きょうも晴れたれど朝寒し。
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八人の額に秋の寒さかな
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その帰途、人々と共に代々木の練兵場をゆきぬけて、浄水所の堤に出づ。ここらは英一が生前しばしば来りてスケッチなどしたる所なり。その踏み荒したる靴の跡はそこかここかと尋ぬるも甲斐《かい》なし。堤の秋草さびしく戦《そよ》ぎて、上水白く流れゆく。
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足あとを何処にたづねん草紅葉
逝くものを堰き止め兼ねつ秋の水
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二十五日、所用ありて上野までゆく。落葉をふみて公園をめぐるに、美術学校の生徒らしきが画架など携えてゆくを見る。英一も健《すこや》かならば、来年はかくあるべきものをと、またしても眼瞼《まぶた》の重きをおぼゆ。
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払へども落葉の雨や袖の上
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二十六日、今夜も眠られず。臥《ふ》しながら思うに、大正元年の秋、英一がまだ十歳なりける時、大西一外
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