日本|開闢《かいびゃく》以来、はじめて舞楽のおもてを刻まれたは、もったいなくも聖徳太子、つづいて藤原淡海公、弘法大師、倉部《くらべ》の春日《かすが》、この人々より伝えて今に至る、由緒《ゆいしょ》正しき職人とは知られぬか。
かつら それは職が尊いのでない。聖徳太子や淡海公という、その人々が尊いのじゃ。かの人々も生業《なりわい》に、面作りはなされまいが……。
春彦 生業にしては卑しいか。さりとは異なことを聞くものじゃの。この春彦が明日にもあれ、稀代の面《おもて》をつくり出《いだ》して、天下一の名を取っても、お身は職人風情と侮《あなど》るか。
かつら 言《お》んでもないこと、天下一でも職人は職人じゃ、殿上人や弓取りとは一つになるまい。
春彦 殿上人や弓取りがそれほどに尊いか。職人がそれほどに卑しいか。
かつら はて、くどい。知れたことじゃに……。
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(桂は顔をそむけて取り合わず。春彦、むっとして詰めよるを、楓はあわてて押し隔てる。)
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かえで ああ、これ、一旦こうと言い出したら、あくまでも言い募るが姉《あね》さまの気質、逆ろうては悪い。いさかいはもう止してくだされ。
春彦 その気質を知ればこそ、日ごろ堪忍していれど、あまりと言えば詞《ことば》が過ぐる。女房の縁につながりて、姉と立つればつけ上り、ややもすればわれを軽しむる面憎《つらにく》さ。仕儀によっては姉とは言わさぬ。
かつら おお、姉と言われずとも大事ござらぬ。職人風情を妹婿に持ったとて、姉の見得《みえ》にも手柄にもなるまい。
春彦 まだ言うか。
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(春彦はまたつめ寄るを、楓は心配して制す。この時、細工場の簾のうちにて、父の声。)
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夜叉王 ええ、騒がしい。鎮《しず》まらぬか。
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(これを聴きて春彦は控える。楓は起って蒲簾をまけば、伊豆の夜叉王、五十余歳、烏帽子《えぼし》、筒袖《つつそで》、小袴にて、鑿《のみ》と槌《つち》とを持ち、木彫の仮面《めん》を打っている。膝《ひざ》のあたりには木の屑《くず》など取り散らしたり。)
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春彦 由なきことを言い募って、細工のおさまたげをも省みぬ不調法、なにとぞ御料簡《ごりょうけん》くださりませ。
かえで これもわたしが姉様に、意見がましいことなど言うたが基《もとい》。姉様も春彦どのも必ず叱《しか》って下さりまするな。
夜叉王 おお、なんで叱ろう、叱りはせぬ。姉妹の喧嘩《いさかい》はままあることじゃ。珍らしゅうもあるまい。時に今日ももう暮るるぞ。秋のゆう風が身にしみるわ。そちたちは奥へ行って夕飯《ゆうまま》の支度、燈火《あかり》の用意でもせい。
二人 あい。
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(桂と楓は起って奥に入る。)
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夜叉王 のう、春彦。妹とは違うて気がさの姉じゃ。同じ屋根の下に起き臥《ふ》しすれば、一年三百六十日、面白からぬ日も多かろうが、何事もわしに免じて料簡せい。あれを産んだ母親は、そのむかし、都の公家衆《くげしゅう》に奉公したもの、縁あってこの夜叉王と女夫《めおと》になり、あずまへ流れ下ったが、育ちが育ちとて気位高く、職人風情に連れ添うて、一生むなしく朽ち果つるを悔みながらに世を終った。その腹を分けた姉妹、おなじ胤《たね》とはいいながら、姉は母の血をうけて公家気質、妹は父の血をひいて職人気質、子の心がちがえば親の愛も違うて、母は姉|贔屓《びいき》、父は妹贔屓。思い思いに子どもの贔屓争いから、埒《らち》もない女夫喧嘩などしたこともあったよ。はははははは。
春彦 そう承われば桂どのが、日ごろ職人をいやしみ嫌い、世にきこえたる殿上人か弓取りならでは、夫に持たぬと誇らるるも、母御《ははご》の血筋をつたえしため、血は争われぬものでござりまするな。
夜叉王 じゃによって、あれが何を言おうとも、滅多に腹は立てまいぞ。人を人とも思わず、気位《きぐらい》高う生まれたは、母の子なれば是非がないのじゃ。
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(暮の鐘きこゆ。奥より楓は燈台を持ちて出づ。)
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春彦 おお、取り紛れて忘れていた。これから大仁《おおひと》の町まで行って、このあいだ誂《あつら》えておいた鑿《のみ》と小刀《さすが》をうけ取って来ねばなるまいか。
かえで きょうはもう暮れました。いっそ明日《あす》にしなされては……。
春彦 いや、いや、職人には大事の道具じゃ。一刻も
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