小坂部伝説
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小坂部《おさかべ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)後室|碪《きぬた》の前
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]
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わたしは帝劇のために「小坂部《おさかべ》姫」をかいた。それを書くことに就いて参考のために、小坂部のことをいろいろ調べてみたが、どうも確かなことが判らない。伝説の方でも播州姫路の小坂部といえば誰も知っている。芝居の方でも小坂部といえば、尾上家に取っては家の芸として知られている。それほど有名でありながら、伝説の方でも芝居の方でもそれがはっきりしていないのである。
まず伝説の方から云うと、人皇第九十二代のみかど伏見天皇のおんときに、小刑部《おさかべ》という美しい女房が何かの科《とが》によって京都から播磨国に流され、姫山――むかしは姫路を姫山と云った。それが姫路と呼びかえられたのは慶長以後のことで、むかしは土地全体を姫山と称していたのを、慶長以後には土地の名を姫路といい、城の所在地のみを姫山ということになったのである――に隠れて世を終わったので、それを祭って小刑部明神と崇めたというのであるが、それには又種々の反対説があって、播磨鑑には小刑部明神は女神にあらずと云っている。播磨名所巡覧図会には「正一位小刑部大明神は姫路城内の本丸に鎮座、祭神二座、深秘の神とす。」とある。それらの考証は藤沢衛彦氏の日本伝説播磨の巻に詳しいから、今ここに多くを云わないが、まだ別に刑部姫《おさかべひめ》は高師直のむすめだと云う説もあって、わたしはそれによって一篇の長編小説をかいたこともある。しかし、小坂部――小刑部とも刑部ともいう――明神の本体が女神であるか無いかという議論以外に、その正体は年ふる狐であるという説が一般に信じられているらしい。なぜそんな伝説が拡まったのか、その由来は勿論わからない。
一体、姫路の城の起源は歴史の上で判っていない。赤松が初めて築いたものか、赤松以前から存在したものか判然《はっきり》しないのであるが、とにかくに赤松以来その名を世に知られ、殊に羽柴筑前守秀吉が中国攻めの根拠地となるに至っていよいよ有名になったのである。慶長五年に池田輝政がここに入って天主閣を作ったので、それがまた姫路の天主として有名なものになった。しかし徳川時代になってからも、ここの城主はたびたび代っている。池田の次に本多忠政、次は松平忠明、次は松平直基、次は松平忠次、次は榊原政房、次は松平直矩、次は本多政武、次は榊原政邦、次は松平明矩という順序で約百四十年のあいだに城主が十代も代っている。平均すると一代わずかに十四年ということになるわけで、こんなに城主の交代するところは珍しい。それはこの姫路という土地が中国の要鎮であるためでもあるが、城主が余りにたびたび変更するということも、小坂部伝説にはよほどの影響をあたえているらしい。
それについて、こんなことが伝えられている。この城の持ち主が代替りになるたびに、かならず一度ずつは彼《か》の小坂部が姿をあらわして、新しい城主にむかってここは誰の物であるかと訊く。こっちもそれを心得ていて、ここはお前様のものでござりますと答えればよいが、間違った返事をすると必ず何かの祟りが[#「祟りが」は底本では「崇りが」]ある。現にある城主が庭をあるいていると、見馴れない美しい上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]があらわれて、例の通りの質問を出すと、この城主は気の強い人で、ここは将軍家から拝領したのであるから、俺のものだと、きっぱり云い切った。すると、その女は怖い眼をしてじろりと睨んだままで、どこへかその姿を隠したかと思うと、城主のうしろに立っている桜の大木が突然に倒れて来た。城主は早くも身をかわしたので無事であったが、風もない晴天の日にこれほどの大木が俄かに根こぎになって倒れるというのは不思議である。つづいて何かの禍いがなければよいがと、家中一同ひそかに心配していると、その城主は間もなく国換えを命じられたということである。こんな話が昔からいろいろ伝えられているが、要するに口碑にとどまって、確かな記録も証拠もない。
小坂部明神なるものが祀られてあるにも拘らず、かれは天主閣に棲んでいると伝えられている。由来、古い櫓や天主閣の頂上には年古る猫や鼬《いたち》その他の獣が棲んでいることがあるから、それらを混じて小坂部の怪談を作り出したのかも知れない。支那にも何か類似の伝説があるかと思って心がけているが、寡聞にして未だ見あたらない。日本
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