を失ったように感じていた私に取って、自分はやはり何物かを失わずにいたということを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えている暇はない。わたしは焼跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……」と、そこらに群がっている人の口々から、一種の待つある如きさざめきが伝えられている。
わたしは愉快にそれを聴いた。わたしもそれを待っているのである。少年時代のむかしに復《かえ》って、春を待つという若やいだ心がわたしの胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物《たまもの》である。
「いや、まだほかにもある。」
こう気が注《つ》いて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ滑りそうに凍っているその細い路を、わたしの下駄はかちかち[#「かちかち」に傍点]と蹈んで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取出した。
震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立退《たちの》くという間際に、書斎の戸棚の片隅に押込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで出た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を叮嚀《ていねい》に調べてみる気も起らなかったが、麻布に一先《ひとま》ず落ちついて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切抜いて保存しておいたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
それだけでも掴《つか》み出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊に纏《まと》めてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまでそのままになっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きを一々にひろげて読みかえした。
わたしは今まで随分沢山の雑文をかいている。その全部のなかから選み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手当り次第にバスケッ
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