馬町《てんまちょう》の通りには幾軒の露店《よみせ》が出ていた。その間に莚《むしろ》を敷いて大道《だいどう》に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻《しきり》に字を書いていた。今日《こんにち》では大道で字を書いていても、銭をくれる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字《じ》を眺めて幾許《いくら》かの銭を置いて行ったものである。
私らもその前に差懸ると、うす暗いカンテラの灯影《ほかげ》にその男の顔を透《すか》して視《み》た父は、一|間《けん》ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ与ったらば直《すぐ》に駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭札はちと多過ぎると思ったが、いわるるままに札を掴《つか》んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否《いな》や一散に駈出して来た。これに就ては、父は何にも語らなかったが、恐らく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
この男を見た時に、『霜夜鐘《しもよのかね》』の芝居に出る六浦正三郎《むつらしょうさぶろう》というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に対《むか》って「……………茶
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