立虫《ちゃたてむし》」と書いていた。上《かみ》の文字は記憶していないが、恐らく俳句を書いて居たのであろう。今日《こんにち》でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫を書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。
八 長唄の師匠
元園町《もとぞのちょう》に接近した麹町《こうじまち》三丁目に、杵屋《きねや》お路久《ろく》という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花さんというのが評判の美人であった。この界隈《かいわい》の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古に通った。三宅花圃《みやけかほ》女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃の虎列剌《これら》で死《しん》でしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家|悉《ことごと》く離散して、その跡は今や坂川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳商《ぎゅうにゅうや》、自然《おのずから》なる世の変化を示しているのも不思議である。
底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日第1刷発行
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