見梯子《みばしご》というものは、今は市中に跡を絶ったが、私の町内――二十二番地の角――にも高い梯子があった。ある年の秋、大風雨《おおあらし》のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌《あく》る朝、私が行って見ると、梯子は根下《ねもと》から見事に折れて、その隣の垣を倒していた。その垣には烏瓜《からすうり》が真赤に熟して、蔓《つる》や葉が搦《から》み合ったままで、長い梯子と共に横《よこた》わっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関運漕店《せきうんそうてん》の旗竿が高く樹《た》っていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。

     三 西郷星

 かの西南戦役《せいなんせんえき》は、私の幼い頃のことで何にも知らないが、絵双紙屋《えぞうしや》の店に色々の戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで五銭位。また、その頃に流行《はや》った唄は、
「紅《あか》い帽子《シャッポ》は兵隊さん、西郷に追われて、トッピキピーノピー。」
 今思えば十一年八月二十三日の夜《よ》であった。夜半《よなか》に近所の人が皆起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音が聞える。父は鉄砲の音だという。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て「何でも竹橋内《たけばしうち》で騒動が起ったらしい。時々に流丸《ながれたま》が飛んで来るから戸を閉めておけ」という。私は衾《よぎ》を被って蚊帳《かや》の中に小さくなっていると、暫《しば》らくしてパチパチの音も止《や》んだ。これは近衛兵の一部が西南役の論功行賞に不平を懐《いだ》いて、突然暴挙を企てたものと後《のち》に判った。
 やはりその年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星《ほうきぼし》が見えた。誰《たれ》がいい出したか知らないが、これを西郷星と呼んで、先頃のハレー彗星《すいせい》のような騒ぎであった。終局《しまい》には錦絵まで出来て、西郷・桐野・篠原らが雲の中に現れている図などが多かった。
 また、その頃に西郷鍋というものを売る商人《あきんど》が来た。怪しげな洋服に金紙《きんがみ》を着けて金モールと見せ、附髭《つけひげ》をして西郷の如く拵《こし》らえ、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論、一種の玩具《おもちゃ》に過ぎないのであるが、何しろ西郷というのが呼物で、大繁昌《おおはんじょう》であった。私なども母に強請《せが》んで幾度《いくたび》も買った。
 その他《ほか》にも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を喰っては毒だ」と叱られたので、買わずにしまった。

     四 湯屋

 湯屋の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町《こうじまち》四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗《こぎれい》な姐《ねえ》さんが二、三人いた。
 私が七歳《ななつ》か八歳《やっつ》の頃、叔父に連れられて一度その二階に上《のぼ》ったことがある。火鉢に大きな薬缶《やかん》が掛けてあって、その傍《そば》には菓子の箱が列《なら》べてある。後《のち》に思えば例の三馬の『浮世風呂』をそのままで、茶を飲みながら将棋《しょうぎ》をさしている人もあった。
 時は丁度五月の始めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲《しょうぶ》を花瓶《はないけ》に挿していたのを記憶している。松平紀義《まつだいらのりよし》のお茶の水事件で有名な御世梅《ごせめ》お此《この》という女も、かつてこの二階にいたということを、十幾年の後《のち》に知った。
 その頃の湯風呂には、旧式の石榴口《じゃくろぐち》というものがあって、夜などは湯烟《ゆげ》が濛々《もうもう》として内は真暗《まっくら》。加之《しかも》その風呂が高く出来ているので、男女《なんにょ》ともに中途の蹈段を登って這入《はい》る。石榴口には花鳥風月《かちょうふうげつ》もしくは武者絵などが画いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に『水滸伝《すいこでん》』の花和尚《かおしょう》と九紋龍《きゅうもんりゅう》、女湯の石榴口には例の西郷・桐野・篠原の画像が掲げられてあった。
 男湯と女湯との間は硝子戸《がらすど》で見透《みすか》すことが能《でき》た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。

     五 紙鳶《たこ》

 春風が吹くと、紙鳶を思い出す。暮の二十四、五日頃から春の七草、即ち小学校の冬季休業の間は、元園町《もとぞのちょう》十九と二十の両番地に面する大通り(麹町《こうじまち》三丁目から靖国神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばす我々少年軍に依て殆《ほとん》ど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐ
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