馬町《てんまちょう》の通りには幾軒の露店《よみせ》が出ていた。その間に莚《むしろ》を敷いて大道《だいどう》に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻《しきり》に字を書いていた。今日《こんにち》では大道で字を書いていても、銭をくれる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字《じ》を眺めて幾許《いくら》かの銭を置いて行ったものである。
 私らもその前に差懸ると、うす暗いカンテラの灯影《ほかげ》にその男の顔を透《すか》して視《み》た父は、一|間《けん》ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ与ったらば直《すぐ》に駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭札はちと多過ぎると思ったが、いわるるままに札を掴《つか》んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否《いな》や一散に駈出して来た。これに就ては、父は何にも語らなかったが、恐らく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
 この男を見た時に、『霜夜鐘《しもよのかね》』の芝居に出る六浦正三郎《むつらしょうさぶろう》というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に対《むか》って「……………茶立虫《ちゃたてむし》」と書いていた。上《かみ》の文字は記憶していないが、恐らく俳句を書いて居たのであろう。今日《こんにち》でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫を書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。

     八 長唄の師匠

 元園町《もとぞのちょう》に接近した麹町《こうじまち》三丁目に、杵屋《きねや》お路久《ろく》という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花さんというのが評判の美人であった。この界隈《かいわい》の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古に通った。三宅花圃《みやけかほ》女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃の虎列剌《これら》で死《しん》でしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家|悉《ことごと》く離散して、その跡は今や坂川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳商《ぎゅうにゅうや》、自然《おのずから》なる世の変化を示しているのも不思議である。



底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「五色筆」南人社
   1917(大正6)年11月初版発行
初出:「木太刀」
   1910(明治43)年11月、1911(明治44)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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