って往来した位であった。暮の二十日《はつか》頃になると、玩具屋《おもちゃや》駄菓子店《だがしや》等までが殆ど臨時の紙鳶屋に化けるのみか、元園町の角には市商人《いちあきんど》のような小屋掛の紙鳶屋が出来た。印半纏《しるしばんてん》を着た威勢の好《い》い若衆《わかいしゅ》の二、三人が詰めていて、糸目を付けるやら、鳴弓《うなり》を張るやら、朝から晩まで休みなしに忙しい。その店には少年軍が隊をなして詰め掛けていた。
 紙鳶の種類も色々あったが、普通は字紙鳶、絵紙鳶、奴《やっこ》紙鳶で、一枚、二枚、二枚半、最も多いのは二枚半で、四枚六枚となっては小児《こども》には手が付けられなかった。二枚半以上の大紙鳶は、職人かもしくは大家《たいけ》の書生などが揚げることになっていた。松の内は大供《おおども》小供入り乱れて、到るところに糸を手繰《たぐ》る。またその間に、娘子供は羽根を突く。ぶんぶんという鳴弓の声、戞々《かつかつ》という羽子《はご》の音。これがいわゆる「春の声」であったが、十年以来の春の巷《ちまた》は寂々寥々《せきせきりょうりょう》。往来で迂濶《うかつ》に紙鳶などを揚げていると、巡査が来てすぐに叱られる。
 寒風に吹き晒《さら》されて、両手に胼《ひび》を切らせて、紙鳶に日を暮した二十年|前《ぜん》の小児は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻《えりまき》をして、帽子を被って、マントに包《くる》まって懐手《ふところで》をして、無意味にうろうろ[#「うろうろ」に傍点]している今の小児は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない。

     六 獅子舞

 獅子というものも甚だ衰えた。今日《こんにち》でも来るには来るが、いわゆる一文獅子《いちもんじし》というものばかりで、本当の獅子舞は殆《ほとん》ど跡を断った。明治二十年頃までは随分立派な獅子舞が来た。先《ま》ず一行数人、笛を吹く者、太皷《たいこ》を打つ者、鉦《かね》を叩く者、これに獅子舞が二|人《にん》もしくは三人附添っている。獅子を舞わすばかりでなく、必ず仮面《めん》を被って踊ったもので、中には頗《すこぶ》る巧みに踊るのがあった。彼らは門口《かどぐち》で踊るのみか、屋敷内へも呼び入れられて、色々の芸を演じた。球《まり》を投げて獅子の玉取《たまとり》などを演ずるのは、よほど至難《むずかし》い芸だとか聞いていた。
 元園町《もとぞの
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