ちょう》には竹内《たけのうち》さんという宮内省の侍医《じい》が住んでいて、新年には必ずこの獅子舞を呼び入れて色々の芸を演じさせ、この日に限って近所の小児《こども》を邸《やしき》へ入れて見物させる。竹内さんに獅子が来たというと、小児は雑煮の箸を投《ほう》り出《だ》して皆《みん》な駈け出したものであった。その邸は二十七、八年頃に取毀《とりこわ》されて、その跡に数軒の家が建てられた。私が現在住んでいるのはその一部である。元園町は年《とし》ごとに栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで小児に見せてやろうなどという悠暢《のんびり》した人はだんだんに亡びてしまった。口を明《あ》いて獅子を見ているような奴は、一概に馬鹿だと罵《ののし》られる世の中となった。眉が険しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を観るべくあまりに怜悧になった。
 万歳《まんざい》は維新以後全く衰えたものと見えて、私の幼い頃にも已《すで》に昔の俤《おもかげ》はなかった。

     七 江戸の残党

 明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時頃になると、一人のおでん屋が売りに来た。年は四十五、六でもあろう。頭には昔ながらの小さい髷《まげ》を乗せて、小柄ではあるが、色白の小粋な男で、手甲《てっこう》脚袢《きゃはん》の甲斐甲斐《かいがい》しい扮装《いでたち》をして、肩にはおでんの荷を担《かつ》ぎ、手には渋団扇《しぶうちわ》を持って、おでんやおでんやと呼んで来る。実に佳《い》い声であった。
 元園町《もとぞのちょう》でも相当の商売があって、わたしも度々《たびたび》買ったことがある。ところが、このおでん屋は私の父に逢《あ》うと相互《たがい》に挨拶する。子供心にも不思議に思って、だんだん聞いて見ると、これは市ヶ谷|辺《へん》に屋敷を構えていた旗下《はたもと》八|万騎《まんぎ》の一人《いちにん》で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業《かぎょう》を始めたのだという。あの男も若い時には中々道楽者であったと、父が話した。なるほど何処《どこ》かきりり[#「きりり」に傍点]として小粋なところが、普通の商人《あきんど》とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風《ふう》の商人が沢山あった。これもそれと似寄《により》の話で、やはり十七年の秋と思う。わたしが父と一所《いっしよ》に四谷へ納涼《すずみ》ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷|伝
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