のであるが、何しろ西郷というのが呼物で、大繁昌《おおはんじょう》であった。私なども母に強請《せが》んで幾度《いくたび》も買った。
その他《ほか》にも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を喰っては毒だ」と叱られたので、買わずにしまった。
四 湯屋
湯屋の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町《こうじまち》四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗《こぎれい》な姐《ねえ》さんが二、三人いた。
私が七歳《ななつ》か八歳《やっつ》の頃、叔父に連れられて一度その二階に上《のぼ》ったことがある。火鉢に大きな薬缶《やかん》が掛けてあって、その傍《そば》には菓子の箱が列《なら》べてある。後《のち》に思えば例の三馬の『浮世風呂』をそのままで、茶を飲みながら将棋《しょうぎ》をさしている人もあった。
時は丁度五月の始めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲《しょうぶ》を花瓶《はないけ》に挿していたのを記憶している。松平紀義《まつだいらのりよし》のお茶の水事件で有名な御世梅《ごせめ》お此《この》という女も、かつてこの二階にいたということを、十幾年の後《のち》に知った。
その頃の湯風呂には、旧式の石榴口《じゃくろぐち》というものがあって、夜などは湯烟《ゆげ》が濛々《もうもう》として内は真暗《まっくら》。加之《しかも》その風呂が高く出来ているので、男女《なんにょ》ともに中途の蹈段を登って這入《はい》る。石榴口には花鳥風月《かちょうふうげつ》もしくは武者絵などが画いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に『水滸伝《すいこでん》』の花和尚《かおしょう》と九紋龍《きゅうもんりゅう》、女湯の石榴口には例の西郷・桐野・篠原の画像が掲げられてあった。
男湯と女湯との間は硝子戸《がらすど》で見透《みすか》すことが能《でき》た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。
五 紙鳶《たこ》
春風が吹くと、紙鳶を思い出す。暮の二十四、五日頃から春の七草、即ち小学校の冬季休業の間は、元園町《もとぞのちょう》十九と二十の両番地に面する大通り(麹町《こうじまち》三丁目から靖国神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばす我々少年軍に依て殆《ほとん》ど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐ
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング