子供役者の死
岡本椅堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)女形《おんながた》

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(例)[#地付き]
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 ペテロは三たびキリストを知らずといえり。――これはそんなむずかしい話ではありませんと、ある人は語った。

 なんでも慶応の初年だと聞いていました。甲州のなんとかいう町へ、江戸の子供役者の一座が乗り込んだのです。十七八をかしらに十五六から十二三ぐらいの子供ばかりで、勿論たいした役者でもなかったのですが、その頃のことですから、ともかくもお江戸の役者が来たというので、初日のあく前から大変な人気で、遠い山奥からも見物に出て来るという勢いで、芝居は毎日売り切れだったそうです。二日替りの狂言が五度も替ったというのですから、その景気も思いやられます。
 その一座のうちに六三郎という女形《おんながた》がありました。中村というのか、尾上というのか、市川というのか忘れてしまいましたが、年は十六、娘形専門の綺麗な児で、忠臣蔵の小浪や三代記の時姫などを勤めていたのですが、なにしろ舞台顔もよし、小手も利くもんですから、これがまた大変の人気役者で、女客の七分はこの六三郎を見に来るというような有様でしたが、そのうちでも特別に六三郎を贔屓にしたのは、お初という女で……。年齢は二十五六だったそうですが、色の浅黒い、細おもての小粋な女で、今こそこんな田舎に引っ込んでいますが、生まれはやはり江戸で、清元などをよく語ったそうです。
 そんな風ですから、田の草を取っている在所の娘さん達とは自然と肌合いも違いましょうし、その上に両方とも江戸者同士ですから、六三郎とも調子が合って、話もだんだんに面白くなって来たんですね。人気稼業はしていても、まだ十六の六三郎ですから、江戸にいた頃には一度も浮いた噂を聞かなかったのですが、どうもこの頃は様子がおかしいと、一座のうちでも年嵩《としかさ》の者は眼をつけるようになりました。子供達にさえそう見えたのですから、小屋ぬしの目にも耳にもはいらない筈はありません。関係者一同はだいぶ心配を始めました。というのは相手が悪い。
 このお初は鰍沢《かじかざわ》の吉五郎という博奕打ちの妾でした。吉五郎はここら切っての大親分で、子分の二百人も持っているという男で、それはそれは大した威勢だったそうです。お初は江戸から甲州へ流れて来て、鰍沢あたりの小料理屋に奉公していたのを、吉五郎が引っこ抜いて来て、自分の家の近所に囲って置いたのです。お初も如才ない女ですから、うまく親分に取り入って、なんでも言う目が出るという贅沢ざんまいで、ずいぶん派手に暮らしていたそうです。それが今度、かの六三郎とこんな訳になってしまって、しまいにはだんだんに増長して、真っ昼間でも自分の家へ男を引っ張り込むという始末になったもんですから、小屋主ももう打っちゃっては置かれなくなりました。
 これが普通のお大尽の持ち物かなんぞならば、万一そのことが露《ば》れたとしても差したる面倒も起こらず、女がお払い箱になるくらいのことでけりが付くんでしょうけれども、相手が長脇差の大親分ではなかなかそんなことでは済む筈がありません。不埒を働いた女はいうに及ばず、男もどんな目に逢うか知れませんし、これにつながる小屋主その他の関係者もどんな飛ばっちりを受けないとも限りませんから、内心ではらはらしていたのです。で、一座の座頭《ざがしら》にもわけを話して、座頭と太夫元の二人から六三郎にむかってくれぐれも意見をしました。
 座頭は、もしこれがばれたあかつきにはお前ばかりの難儀でない、一座の者の迷惑にもなることだから、あの女だけは思い切れと叱るように言って聞かせました。太夫元はまた、万一親分が我慢しても子分たちが承知する筈がない。大勢が芝居小屋へ押し掛けて来て、木戸を打ち毀すなどは往々ある習いだから、あの女だけはどうぞ手を切ってくれと、頼むようにいって聞かせました。六三郎はやさしい眼に涙をうかべて、長い袂を膝の上に重ねまして、「どうも御心配をかけて済みません。」と、唯ひとこと言いました。で、いよいよ思い切るのかと念を押すと、六三郎はわっと泣き出しました。それから先きはなんといっても、泣くばかりで返事をしないので、みんなもしまいにはもてあましてしまって、まあ、よく考えて御覧というようなことで、その場はうやむやに済んでしまいました。
 六三郎は自分の座敷へしょんぼりと帰って来ました。田舎にしては広い宿屋で、六三郎の座敷は南向きの縁側を前にしていたそうです。旧暦の八月ももう半ば過ぎで、日のうちはまだちっと暑いようですけれども、広い家の隅々や庭の木の蔭などは、昼間でもなんとなく冷やりとして、縁の下では頻りにこおろぎが鳴いていました。一
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