つ座敷にいる広助という頓狂な半道《はんどう》役者は、うしろの森へ虫を捕りに行って留守でした。六三郎は縁側の柱にもたれて、庭の鶏頭の紅い花をじっとながめていましたが、いつか袂を顔にあてて、女の児のようにしくしく泣き出しました。どうで自分もいつまでもこの土地にいられる身の上ではない、おそくももう四、五日のうちにはここを立ち退かなければならないということは、最初から無論に承知しているんですが、その四、五日のあいだでもお初に逢えるだけ逢いたいと思っているところを、無理に堰《せ》かれようとするのですから、悲しいのも道理《もっとも》です。六三郎はまだ十六ですからねえ。
で、しばらくは意気地もなく泣いていましたが、やがてそこにある下駄を突っかけて、ふらふらと表の方へ出ました。笠の無いのに気がついたもんですから、ふところから白い手拭を出して頬かむりをしました。どこへ行くつもりか、自分にはっきりとは判らなかったかも知れませんが、目に見えない糸に引かれるように、往来の少ない田舎の町を横に切れて、舞台で見る色男のように、魂ぬけてとぼとぼと歩いてゆきました。足は自然にお初の家の方へ向いて行ったのです。
お初の門口《かどぐち》には大きな百日紅《さるすべり》の木が立っていました。六三郎はやがてその木の下まであるいて来ると、内から丁度にお初が出て来ました。その前後には二人の子分が付いていたので、六三郎はあわてて百日紅のかげに隠れてしまいましたが、虫が知らすとでもいうのでしょうか、門を出てふた足ばかり歩くと、お初はこっちをちょっと振り返りました。銀杏返しの鬢はほつれて、その顔は幽霊のように真っ蒼に見えたので、六三郎は思わずぎょっとしましたが、なにしろ傍には大の男が二人も付いているのですから、うっかりと声をかけることも出来ません。ただ小さくなって、そのうしろ影を見送っていたのですが、お初の様子がどうも唯でない。気のせいか、子分たちの眼色もなんとなく怖いように見えたので、六三郎はますます不安心になって来たのです。ひょっとすると、自分との一件が露顕したのではあるまいか。お初はこれから親分のところへ引き摺って行かれるのではあるまいか。
こう思うと、六三郎は急に怖くなって、一生懸命に自分の宿へ逃げて帰りました。
日が暮れて、楽屋入りの時刻が来たので、六三郎は一座の役者達と一緒に芝居小屋へ行きました。今夜の狂言は「菅原」と「伊勢音頭」で、六三郎は八重とおこんとを勤めたのですが、いつもよりも鬘の重い頭はなんだかぼんやりしていて、舞台もろくろくに身にしみませんでした。田舎の芝居は閉場《はね》が遅いので、自分の役をすまして宿へ帰ったのは夜の九つ過ぎ、今の十二時過ぎでしたろう。帰ると、宿の店口には大きな男が三人ばかり、たばこをのんで待っていました。六三郎の顔を見ると、いずれもばらばらと寄って来て、「おい、気の毒だがちょいとそこまで来てくれ。」と言う。そのゆく先きは大抵判っています。昼間のことを思い合わして、六三郎ははっと立ち竦んでしまいましたが、いまさら否の応のといったところで仕方がありません。
とかく遅れ勝の六三郎を、三人は引き摺るようにして三、四町ばかり連れて行きました。町を出はずれると、暗い木のかげには又二、三人の男が立っていて、これも六三郎の前後を取り巻いて行きました。長い田圃路《たんぼみち》の夜露を踏んで、六三郎は黙って歩きました。ほかの男たちもだまって歩いていました。田圃を通り過ぎると、人家が又ちらほらと見えて来て、一軒の大きな家の前に着きますと、送り狼のような男たちは二、三人さきへ駈け抜けて内へはいりました。六三郎はあとから連れ込まれました。
半分はもう夢中でしたから、六三郎にもよくは判りませんでしたろうが、ともかくも幾間もある広い家の奥へ通されると、ここは三十畳以上もあろうかと思われる大きな座敷で、幾つかの燭台が煌々とついています。正面の床の間の前に控えているのが親分の吉五郎で、年のころは四十七八の肥った男、左の眉のはずれには大きな切傷の痕がただれて残っています。その両側には二、三十人の子分がずらりと居ならんで、今が酒盛りの真っ最中です。座敷の下《しも》の方《かた》には六枚折りの屏風が逆さに立ててありました。
六三郎の顔をみると、吉五郎はにやにや笑いながら、「さあ、遠慮なしにこっちへ来なせえ。」と、自分のとなりに坐らせました。無論、幾たびも辞退したのですけれども肯《き》きません、子分たちは無理無体に六三郎の手を取って、親分のとなりの席へ押しすえたので、もう逃げることも出来ません。ただ、蒼くなって小さくなって、行儀よく坐っていますと、吉五郎は「わたしは鰍沢の吉五郎という者だ。お前たちが今度こっちへ乗り込んでたいそう評判がいいというのを聞いて、わたしも
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング