蔭ながらよろこんでいる。一度は逢って懇意になって置きたいと思っていたんだが、いろいろ野暮な用があったので、きょうまで延引してまことに済まなかった。なにしろ、今夜はよく来てくれた。おれ達のようなケチな野郎でも又何かの役に立つことがねえとも限らねえ。これからは心安く付き合ってもらおうぜ。」と、まあこんな挨拶をして、六三郎に大きな杯をさしたそうです。六三郎は子供で、しかも下戸ですから一生懸命に固くなって頻りに辞退すると、それじゃあ味淋酒でもやれというので、子分が大きな徳利《とくり》を持ち出して来ました。味淋だって同じことです。この場合、酒も味淋も湯も茶も、なんにも喉へは通らないのですけれども、折角そういうもんですから、六三郎は仕方なしに味淋の杯をひと口なめて下に置きました。
吉五郎は大勢の親分と立てられている人だけに、人間もなかなか如才ないらしく、初対面から打ち解けていろいろの話を仕掛けますけれども、こっちは針の筵《むしろ》に坐っているのですから、満足の受け答えができよう筈がありません。相手が打ち解けた風を見せるだけに、なおなおこっちは薄気味悪くなって来て、今にどうなることかと小さくなっていますと、やがて吉五郎は子分の者に眼配せをして、「あの屏風をあけろ。」と言いました。子分の二人が起ち上がって、下の方の隅に立てまわしてある逆さ屏風をあけると、六三郎はひと目見てはっとしました。
この逆さ屏風がさっきから気になっていたのですが、さていよいよ明けてみると、屏風のなかには一人の女がうしろ向きになって倒れているのです。長い髪は滅茶苦茶に散らばって、頭から肩のあたりに押っかぶさっていて、黒の帯はぐずぐずに解けかかっている。それはまあいいとして、女の着ている白地の単衣《ひとえもの》はどこもかしこも血だらけで、とりわけて肩や脇腹のあたりには、大きな撫子《なでしこ》の花でも染め出したようにべっとりと紅くにじんでいる。早くいえば、芝居の切られお富をそのままなのです。この女は誰でしょう。どうしてこんな酷《むご》たらしい目に逢ったのでしょう。六三郎は惣身《そうみ》に冷や水でも浴びせられたように感じて、息ももう詰まってしまいました。からだは石のようになって、ふるえることも出来なくなりました。
吉五郎は黙って悠々と酒を飲んでいます。大勢の子分達もなんにもいわずに酒を飲んだり、煙草をのんだりしているのです。燭台の煌々と明るい広間はただ森閑として、庭に鳴いている虫の声が途切れ途切れにきこえるばかりです。六三郎はもう生きているのか、死んでいるのか判りません。唯さえ蒼白い顔は藍《あい》のように変わってしまって、ただ黙ってうつむいていると、やがて吉五郎はじろりと見かえって、「若けえ人に飛んだお下物《さかな》を見せたが、おめえはあの女を知っているかえ。」と、こう訊いたそうです。知っていると言ったらどうするでしょう。この時に六三郎はなんと返事をすればよかったでしょう。その返事の仕様一つで、自分も女とおなじ運命に陥るのは眼に見えています。
もし六三郎に勇気があったら、自分もおなじ枕に殺されても構わない、なぶり殺しにされても厭わない。血だらけになった女の死骸をしっかり抱いて、これはわたしを可愛がってくれた女ですと大きい声で叫んだかも知れません。が、六三郎は可哀そうにまだ子供です。またその性質や職業からいっても、そんなことの出来るような強い人間ではありません。実際この女のためならば、命もいらないと思い込んでいるとしても、いざという時にその命を思い切ってそこへ投げ出すことの出来る人間ではありません。で、六三郎は黙っていました。重ねて訊かれた時に、怖々ながら重い口で、「いいえ、存じません。」と、卑怯なことを言ったのです。六三郎は心にもない嘘をついてしまったのです。「ほんとうに知らねえのか。」と、念を押された時にも、「知りません」と、又答えたそうです。
吉五郎は「むむ、そうか。」と、苦笑いをしたばかりで、別に深く詮議もしなかったそうです。そうして「どうだい、もう一杯やらねえか。」と言って、例の味淋酒を突き付けられたのですが、六三郎はもう夢中で、今度は一杯の味淋酒をひと息にぐっと飲んでしまいました。
女の死骸はふたたび屏風に隠されて、それからまたいろいろの下物などが出たそうですが、六三郎は箸も付けませんでした。舞台で坐っているよりももっと整然《きちん》とかしこまったままで、吉五郎や子分達がおもしろそうに飲んでいるのをまじまじと眺めていました。そのうちにどこかで一番鶏が歌い始める。「お前も迷惑だろうから、もう帰ったらよかろう。」と吉五郎が言う。ぬくめ鳥のような六三郎はようよう荒鷲の爪から放されて、たくさんの祝儀を貰って、元のように子分たちに送られて帰りました。
宿の方では六
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