巻物を膝の上にひろげて、森垣さんは大きい法螺の貝を口にあてました。その時は、もう命はいらないほどに嬉しかったそうです。前に云った足柄山の新羅三郎と時秋とを一人で勤めるような形で、森垣さんはしずかに吹きはじめました。夜ではあり、山路ではあり、こゝらを滅多に通る者はありません。たまに登ってくる者があったところで、それが何という譜を吹いているのか、とても素人に聞き分けられる筈はないので、森垣さんも多寡をくゝっていました。
それでもやはり気が咎めるので、初めの中は努めて低く吹いていたのですが、月はいよ/\明るくなる、吹く人もだん/\興に乗ってくる。森垣さんは我をわすれて、喉一ぱいに高く/\吹き出すと、夜がおい/\に更けて、世間も鎮まって来たので、その貝の音は三里半をへだてた城下まで遠くきこえました。
その晩は月がいゝので、殿様は城内で酒宴を催していました。もう夜がふけたからと云って席を起とうとしたときに、彼の貝の音がきこえたので、殿様も耳をかたむけました。家来達も顔を見合せました。幕末で世間がなんとなく騒がしくなっていましたが、まさかに隣国から不意に攻めよせて来ようとは思われないので、今ご
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