とは、前にも申した通りの山出しですから心配はありませんが、ただ不安心なのは留守居の侍の稲瀬十兵衛夫婦でございます。女房の方は病身で、その上に至極おとなしい人間ですから、あまり気を置くこともないのですが、夫の方は――これも正直一方で、眼先の働く人間ではありませんが、それでも一人前の侍ですから、うっかり気を許すわけには行きません。わたくしは唯それを心配していますと、その十兵衛は宵からどこへか出て行ってしまいました。女房の話によると、なにか親類に不幸が出来たとかいうのです。なんという都合の好いことでしょう。わたくしは手をあわせて遠くから浅草の観音様を拝みました。そのことを奥様に申上げますと、奥様も黙って笑っておいでになりました。奥様はどんなお心持であったか知りませんけれども、わたくしは襟許がぞく[#「ぞく」に傍点]/\して、生れてから今夜ぐらい嬉しいことはないように思われました。
そのうちに約束の刻限がまいりました。生憎に宵から陰《くも》って、今にも泣き出しそうな暗い空模様になりましたが、たとい雨が降っても照之助は来るに相違ありませんから、天気のことなどは余り深く考えてもいませんでした。不
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