外で、好きこそ物の上手なりけりと云うのか、それとも一種の天才というのか、素人芸や殿様芸を通り越して、三年五年のうちにめき/\と上達する。第一に喉が好い。三味線も達者にひく。ふだんは苦々しく思っている奥様や用人も、春雨のしんみりと降る日に、非番の殿様が爪びきで明鴉《あけがらす》か何かを語っていると、思わずうっとりと聴き惚れてしまうと云うようなわけですから、師匠もお世辞を抜きにしてほんとうに褒める。当人は一心不乱に稽古する。師匠も身を入れて教える。それが自然と同役のあいだにも伝わって、下屋敷などで何かの酒宴でも催すというような場合には、小坂をよんで一段語らせようではないかと云うことになる。当人もよろこんで出かけてゆく。それが続いているうちに、世間の評判がだん/\に悪くなりました。
 一方にこれほど浄瑠璃に凝りかたまっていながらも、小坂という人は別に勤め向きを怠るようなこともありませんでした。とんだ三段目の師直《もろなお》ですが、勤めるところは屹《きっ》と勤める武蔵守と云った風で、上《かみ》の御用はかゝさずに勤めていたのですが、どうも世間の評判がよろしくない。まえにも云う通り、おなじ歌いものでも弁慶や熊坂とちがって、権八や浦里ではどうも困る。それも小身者の安御家人かお城坊主のたぐいならば格別、なにしろ千五百石取りのお歴々のお旗本が粋な喉をころがして、「情《なさけ》は売れど心まで」などと遣っているのでは、理窟は兎もあれ、世間が承知しません。武士にあるまじきとか、身分柄をも憚からずとか云うような批難の声がだん/\に高くなってくるので、支配頭も聞きながしているわけにも行かなくなりました。勿論、親類縁者の一門からも意見や苦情が出てくるという始末。と云って、小坂丹下、家代々の千五百石の知行をなげ出しても、今更清元をやめることは出来ないので、結局病気と云い立てゝ無役の小普請組に這入ることになりました。
 小普請に這入れば何をしてもいゝと云うわけでは勿論無いのですが、それでも小普請となると世間の見る目がずっと違って来ます。もう一歩すゝんで寧《いっ》そ隠居してしまえば、殆ど何をしても自由なのですが、家督相続の子供がまだ幼少であるので、もう少し成長するのを待って隠居するという下心《したごころ》であったらしく、先ずそれまでは小普請に這入って、やかましい世間の口を塞ぐ積りで、自分から進んで無役のお仲間入りをしたのでしょう。それについても定めて内外《うちそと》から色々の苦情があったことゝ察しられますが、当人が飽までも遊芸に執着しているのだから仕方がありません。小坂さんはとう/\自分の思い通りの小普請になって、さあこれからはおれの世界だとばかりに、大びらで浄瑠璃道楽をはじめることになりました。いや、もうその頃は所謂お道楽を通り越して、本式の芸というものになっていたのです。
 こうなると、自分の屋敷内で遠慮勝に語ったり、友だちの家へ行って慰み半分に語ったりしているだけでは済まなくなりました。当人はどこまでも真剣です。だん/\と修業が積むにつれて、自然と芸人附合をも始めるようになって、諸方のお浚いなどへも顔を出すと、それがまったく巧いのだから誰でもあっと感服する。桐畑の殿様を素人にして置くのは勿体ないなどと云う者もある。当人もいよ/\乗気になって、浜町の家元から清元|喜路《きじ》太夫という名前まで貰うことになってしまいました。勿論それで飯を食うというわけではありませんが、千五百石の殿様が清元の太夫さんになって、肩衣《かたぎぬ》をつけて床《ゆか》にあがるというのですから、世間に類の少いお話と云っていゝでしょう。清元の仲間では桐畑の太夫さんと呼んでいました。道楽もこゝまで徹底してしまうと誰もなんとも云いようがありますまい。屋敷内の者も親類縁者の人達も、もう諦めたのか呆れたのか、正面から意見がましいことを云い出す者もなくなって、唯いたずらに当人の自由行動をながめているばかりでした。
 さてこれからがお話の本文で、この喜路太夫の身のうえに一大事件が出来《しゅったい》したのです。

       三

 まえにも申上げた通り、天保初年の三月末のことだそうです。芝の高輪《たかなわ》の川与《かわよ》という料理茶屋で清元の連中のお浚いがありました。今日とちがって、江戸時代の高輪は東海道の出入口というのでなか/\繁昌したものです。殊に御殿山のお花見が大層賑いました。お浚いは昼の八つ(午後二時)頃から夜にかけて催されることになって、大きい桜のさいている茶屋の門口《かどぐち》に、太夫の連名を筆太にかいた立看板が出ているのを見ると、そのうちに桐畑の喜路太夫の名も麗々しく出ていました。
 このお浚いは昼のうちから大層な景気で、茶屋の座敷には一杯の人が押掛けています。日がくれると門口には紅
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