い提灯をつける。内ばかりでなく、表にも大勢の人が立っている。そこへ通りかゝった七八人連の男は、どれも町人や職人風で、御殿山の花見帰りらしく、真紅《まっか》に酔った顔をしてよろけながらこの茶屋のまえに来かゝりました。
「やあ、こゝに清元の浚いがある。馬鹿に景気がいゝぜ。」
 立ちどまって立看板をよんでいるうちに、その一人が云いました。
「おい、おい。このなかで清元喜路太夫というのは聞かねえ名だな。どんな太夫だろう。」
「むゝ。おれも聞いたことがねえ。下手か上手か、一つ這入って聴いて遣ろうじゃねえか。」
 酔っているから遠慮はない。この七八人はどや/\と茶屋の門《かど》を這入って、帳場のまえに来ました。
「もし、喜路太夫と云うのはもうあがりましたかえ。」
「いえ、これからでございます。」と、帳場にいる者が答えました。なんと云っても幾らかの遠慮がありますから、小坂さんの喜路太夫は夜になってから床《ゆか》にあがることになっていたのです。
「じゃあ、丁度いゝ。わっし等にも聴かせておくんなせえ。」
「皆さんはどちらの方でございます。」
「わっし等はみんな土地の者さ。」
「どちらのお弟子さんで……。」
「どこの弟子でもねえ。たゞ通りかゝったから聴きに這入ったのよ。」
 浄瑠璃のお浚いであるから、誰でも無暗に入れると云うわけには行かない。殊にどの人もみんな酔っているので、帳場の者は体よく断りました。
「折角でございますが、今晩は通りがかりのお方をお入れ申すわけにはまいりません。どうぞ悪しからず……。」
「わからねえ奴だな。おれ達は土地の者だ。今こゝのまえを通ると清元の浚いの立看板がある。ほかの太夫はみんなお馴染だが、そのなかに唯《た》った一人、喜路太夫というのが判らねえ。どんな太夫だか一段聴いて、上手ならば贔屓《ひいき》にしてやるんだ。そのつもりで通してくれ。」
 酔った連中はずん/\押上ろうとするのを、帳場の者どもはあわてゝ遮りました。
「いけません、いけません。いくら土地の方でも今晩は御免を蒙ります。」
「どうしても通さねえか。そんならその喜路太夫をこゝへ呼んで来い。どんな野郎だか、面をあらためて遣る。」
 なにしろ相手は大勢で、みんな酔っているのだから、始末が悪い。帳場の者も持余していると、相手はいよ/\大きな声で怒鳴り出しました。
「さあ、素直におれ達を通して浄瑠璃を聴かせるか。それとも喜路太夫をこゝへ連れて来て挨拶させるか。さあ、喜路太夫を出せ。」
 この捫着の最中に、なにかの用があって小坂さんの喜路太夫が生憎に帳場の方へ出て来たのです。しきりに喜路太夫という名をよぶ声が耳に這入ったので、小坂さんは何かと思って出てみると、七八人の生酔いが入口でがや/\騒いでいる。帳場のものは小坂さんがなまじいに顔を出しては却って面倒だと思ったので、一人がそばへ行って小声で注意しました。
「殿様、土地の者が酔っ払って来て、何かぐず/\云っているのでございます。あなたはお構い下さらない方がよろしゅうございます。」
「むゝ。土地の者がぐずり[#「ぐずり」に傍点]に来たのか。」
 むかしは遊芸の浚いなどを催していると、質《たち》のよくない町内の若い者や小さい遊び人などが押掛けて来て、なんとか引っからんだことを云って幾らかの飲代《のみしろ》をいたぶってゆくことが往々ありました。世間馴れている小坂さんは、これも大方その仲間であろうと思ったのです。そう思ったら猶更のこと、帳場の者にまかせて置けばよかったのですが、そこが矢はり殿様で、自分がつか/\と入口へ出てゆきました。
「失礼であるが、今夜はこちらも取込んでおります。ゆっくりとこゝで御酒《ごしゅ》をあげていると云うわけにも行かない。どうかこれで、ほかへ行って飲んでください。」
 小坂さんは紙入から幾らかの銀《かね》を出して、紙につゝんで渡そうとすると、相手の方ではいよ/\怒り出しました。
「やい、やい。人を馬鹿にしやあがるな。おれたちは銭貰いに来たんじゃあねえ。喜路太夫をこゝへ出せというんだ。」
「その喜路太夫はわたしです。」
「むゝ。喜路太夫は手前《てめえ》か。怪しからねえ野郎だ。ひとを乞食あつかいにしやあがって……。」
 なにしろ酔っているから堪らない。その七八人がいきなりに小坂さんを土間へひき摺り下して、袋叩きにしてしまったのです。旗本の殿様でも、大小を楽屋にかけてあるから丸腰です。勿論、武芸の心得もあったのでしょうが、この場合、どうすることも出来ないで、おめ/\と町人の手籠めに逢った。帳場の者もおどろいて止めに這入ったが間に合わない。その乱騒ぎのうちに、どこか撲《ぶ》ち所が悪かったとみえて、小坂さんは気をうしなってしまったので、乱暴者も流石にびっくりして皆ちり/″\に逃げて行きました。それを追っかけて取
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