押えるよりも、先ず殿様を介抱しなければならないと云うので、家中《うちじゅう》は大騒ぎになりました。
すぐに近所の医者をよんで来て、いろ/\の手当をして貰いましたが、小坂さんはどうしても生き返らないで、とう/\其儘に冷くなったので、関係者はみんな蒼くなってしまいました。もうお浚いどころではありません。兎もかくも急病の体にして、死骸を駕籠にのせて、竊《そっ》と赤坂の屋敷へ送りとゞけると、屋敷でもおどろきましたが、場所が場所、場合が場合ですから、なんとも文句の云い様がありません。旗本の主人が清元の太夫になって、料理茶屋のお浚いに出席して、しかも町人にぶち殺されたなどと云うことが表沙汰になれば、家断絶ぐらいの御咎めをうけないとも限りませんから、残念ながら泣寝入りにするより外はありません。今年十五になる丹三郎という息子さんは、お父さんが大事にしていた二挺の三味線を庭へ持ち出して、脇差を引きぬいてその棹を真二つに切りました。皮をずた/\に突き破りました。
「これがせめてもの仇討だ。」
小坂さんは急病で死んだことに届けて出て、表向きは先ず無事に済んだのですが、その初七日のあくる日、八人の若い男が赤坂桐畑の屋敷へたずねて来て、玄関先でこういうことを云い入れました。
「わたくし共は高輪辺に住まっております者でございますが、先日御殿山へ花見にまいりまして、その帰り途に川与という料理茶屋のまえを通りますと、そこの家に清元の浚いがございまして、立看板の連名のうちに清元喜路太夫というのがございました。ついぞ名前を聞いたことのない太夫ですから、一段聴いてみようと云って這入りますと、帳場の者が入れないという。こっちは酔っておりますので、是非入れてくれ、左もなければその喜路太夫というのをこゝへ出して挨拶させろと、無理を云って押問答をしておりますところへ、奥からその喜路太夫が出て来て、今夜は入れることは出来ないから、これで一杯飲んでくれと云って、幾らか紙につゝんだものを出しました。くどくも申す通り、こっちも酔っておりますので、ひとを乞食あつかいにするとは怪しからねえと、喧嘩にいよ/\花が咲いて、とう/\その喜路太夫を袋叩きにしてしまいました。それでまあ一旦は引きあげたのでございますが、あとでだん/\うけたまわりますると、喜路太夫と申すのはお屋敷の殿様だそうで、実にびっくり致しました。まだそればかりでなく、それが基で殿様はおなくなり遊ばしましたそうで、なんと申上げてよろしいか、実に恐れ入りました次第でございます。就きましては、その御詫として、下手人一同うち揃ってお玄関まで罷り出ましたから、なにとぞ御存分のお仕置をねがいます。」
小坂の屋敷でも挨拶に困りました。憎い奴等だとは思っても、こゝで八人の者を成敗すれば、どうしても事件が表向きになって、一切の秘密が露顕することになるので、応対に出た用人は飽までもシラを切って、当屋敷に於ては左様な覚えは曽て無い、それは何かの間違いであろうと云い聞かせましたが、八人の者はなか/\承知しない。清元喜路太夫はたしかにお屋敷の殿様に相違ない。知らないことゝは云いながら、お歴々のお旗本を殺して置いて唯そのまゝに済むわけのものでないから、こうして御成敗をねがいに出たのであるが、お屋敷でどうしても御存じないとあれば、わたくし共はこれから町奉行所へ自訴して出るより外はないと云い張るのです。
これには屋敷の方でも持てあまして、いずれ当方からあらためて沙汰をするからと云って、一旦は八人の者を追い返して置いて、それから土地の岡っ引か何かをたのんで、二百両ほどの内済金を出して無事に済ませたそうです。主人をぶち殺された上に、あべこべに二百両の内済金を取られるなどは、随分ばか/\しい話のようですけれども、屋敷の名前には換えられません。重々気の毒なことでした。
八人の者は勿論なんにも知らないで、たゞの芸人だと思って喜路太夫を袋叩きにして、それがほんとうに死んだと判り、しかもそれが旗本の殿様とわかって、みんなも一時は途方にくれてしまったのですが、誰か悪い奴が意地をつけて、相手の弱味につけ込んで、逆ねじにこんな狂言をかいたのだと云うことです。わたくしの親父も一度柳橋の茶屋で喜路太夫の小坂さんの浄瑠璃を聴いたことがあるそうですが、それはまったく巧いものだったと云うことですから、なまじい千五百石の殿様に生れなかったら、小坂さんも天晴れの名人になりすましたのかも知れません。そう思うと、たゞ一口にだらしのない困り者だと云ってもいられません。なんだか惜しいような気もします。いつの代にも斯ういうことはあるのでしょうが、人間の運不運は判りませんね。
「いや、根っから面白くもないお話で、さぞ御退屈でしたろう。」と、云いかけて三浦老人は耳をかたむけた。「おや、降っ
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