て来ましたね。なんだか音がするようです。」
 老人は起って障子をあけると、いつの間にふり出したのか、庭の先は塩をまいたように薄白くなっていた。
「とう/\雪になりました。」
 老人は縁先の軒にかけてある鶯の籠をおろした。わたしもそろ/\帰り支度をした。
「まあ、いゝじゃありませんか。初めてお出《い》でなすったのですから、なにか温《あった》かいものでも取らせましょう。」
「折角ですが、あまり積もらないうちに今日はお暇《いとま》いたしましょう。いずれ又ゆっくり伺います。」と、私は辞退して起ちかかった。
「そうですか。なにしろ足場の悪いところですから、無理にお引留め申すわけにも行かない。では、又御ゆっくりおいで下さい。こんなお話でよろしければ、なにか又思い出して置きますから。」
「はあ。是非またお邪魔にあがります。」
 挨拶をして表へ出る頃には、杉の生垣がもう真白に塗られていた。わたしは人車《くるま》を待たせて置かなかったのを悔んだ。それでも洋傘《こうもり》を持って来たのを[#「持って来たのを」は底本では「待って来たのを」]仕合わせに、風まじりの雪のなかを停車場の方へ一足ぬきに辿って行った。その途中は随分寒かった。
 春の雪――その白い影をみるたびに、わたしは三浦老人訪問の第一日を思い出すのである。
[#改段]

鎧櫃の血

       一

 その頃、わたしは忙しい仕事を持っていたので、兎かくにどこへも御無沙汰勝であった。半七老人にも三浦老人にもしばらく逢う機会がなかった。半七老人はもうお馴染でもあり、わたしの商売も知っているのであるから、ちっとぐらい無沙汰をしても格別に厭な顔もされまいと、内々多寡をくゝっているのであるが、三浦老人の方はまだ馴染のうすい人で、双方の気心もほんとうに知れていないのであるから、たった一度顔出しをしたぎりで鼬《いたち》の道をきめては悪い。そう思いながらも矢はり半日の暇も惜しまれる身のうえで、今日こそはという都合のいゝ日が見付からなかった。
 その年の春はかなりに余寒が強くて、二月から三月にかけても天からたび/\白いものを降らせた。わたしは軽い風邪をひいて二日ほど寝たこともあった。なにしろ大久保に無沙汰をしていることが気にかゝるので、三月の中頃にわたしは三浦老人にあてゝ無沙汰の詫言《わびごと》を書いた郵便を出すと、老人からすぐに返事が来て、自分も正月の末から持病のリュウマチスで寝たり起きたりしていたが、此頃はよほど快《よ》くなったとのことであった。そう聞くと、自分の怠慢がいよ/\悔まれるような気がして、わたしはその返事をうけ取った翌日の朝、病気見舞をかねて大久保へ第二回の訪問を試みた。第一回の時もそうであったが、今度はいよ/\路がわるい。停車場から小一町をたどるあいだに、わたしは幾たびか雪解のぬかるみに新しい足駄を吸取られそうになった。目おぼえの杉の生垣の前まで行き着いて、わたしは初めてほっとした。天気のいい日で、額には汗が滲んだ。
「この路の悪いところへ……。」と、老人は案外に元気よくわたしを迎えた。「粟津の木曽殿で、大変でしたろう。なにしろこゝらは躑躅《つゝじ》の咲くまでは、江戸の人の足|蹈《ぶ》みするところじゃありませんよ。」
 まったく其頃の大久保は、霜解と雪解とで往来難渋の里であった。そのぬかるみを突破してわざ/\病気見舞に来たというので、老人はひどく喜んでくれた。リュウマチスは多年の持病で、二月中は可なりに強く悩まされたが、三月になってからは毎日起きている。殊にこの四五日は好い日和がつゞくので、大変に体《からだ》の工合がいゝという話を聴かされて、わたしは嬉しかった。
「でも、このごろは大久保も馬鹿に出来ませんぜ。洋食屋が一軒開業しましたよ。きょうはそれを御馳走しますからね。お午過ぎまで人質ですよ。」
 こうして足留めを食わして置いて、老人は打ちくつろいで色々のむかし話をはじめた。次に紹介するのもその談話の一節である。

 このあいだは桐畑の太夫さんのお話をしましたが、これもやはり旗本の一人のお話です。これは前の太夫さんとは段ちがいで、おなじ旗本と云っても二百石の小身、牛込の揚場《あげば》に近いところに屋敷を有《も》っている今宮六之助という人です。この人が嘉永の末年に御用道中で大阪へゆくことになりました。大阪の城の番士を云い付かって、一種の勤番の格で出かけたのです。よその藩中と違って、江戸の侍に勤番というものは無いのですが、それでも交代に大阪の城へ詰めさせられます。大阪城の天守が雷火に焚《や》かれたときに、そこにしまってある権現様の金の扇の馬標《うまじるし》を無事にかつぎ出して、天守の頂上から堀のなかへ飛び込んで死んだという、有名な中川|帯刀《たてわき》もやはりこの番士の一人でした。
 そんな
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