とに頓着しなかった。わたしは半七老人から江戸時代の探偵ものがたりを聴き出すのと同じような興味を以て、この三浦老人からも何かの面白い昔話を聴きたいと思った。新しい話を聴かせてくれる人は沢山ある、寧ろだん/\に殖えてゆくくらいであるが、古い話を聴かせてくれる人は暁方《あけがた》の星のようだん/\に消えてゆく。今のうちに少しでも余計に聴いて置かなければならないという一種の慾も手伝って、わたしはあらためて三浦老人訪問の約束をすると、老人は快く承知して、どうで隠居の身の上ですからいつでも遊びにいらっしゃいと云ってくれた。
その次の日曜日は陰《くも》っていた。底冷えのする日で、なんだか雪でも運び出して来そうな薄暗い空模様であったが、わたしは思い切って午後から麹町の家《うち》を出て、大久保百人町まで人車《くるま》に乗って行った。車輪のめり込むような霜どけ道を幾たびか曲りまわって、よう/\に杉の生垣のある家を探しあてると、三浦老人は自身に玄関まで出て来た。
「やあ、よく来ましたね。この寒いのに、お強いこってすね。さあ、さあ、どうぞおあがりください。」
南向きの広い庭を前にしている八畳の座敷に通されて、わたしは主人の老人とむかい合った。
二
わたしは自分と三浦老人との関係を説くのに、あまり多くの筆や紙を費し過ぎたかも知れない。早くいえば、前置きがあまり長過ぎたかも知れないが、これから次々にこの老人の昔話を紹介してゆくには、それを語る人がどんな人物であるかと云うことも先ず一通りは紹介して置かなければならないのである。しかしこの上に読者を倦ませるのはよくない。わたしはすぐに本文に取りかゝって、この日に三浦老人から聴かされた江戸ものがたりの一つを紹介しようと思う。
三浦老人はこう語った。
今日の人たちは幕末の士風頽廃ということをよく云いますが、徳川の侍だって揃いも揃って腰ぬけの意気地無しばかりではありません。なかには今日でも見られないような、随分しっかりした人物もありました。併し又そのなかには随分だらしのない困り者があったのも事実で、それを証拠にして、さあ何《ど》うだと云われると、まったく返事に詰まるわけです。そのだらしのないと云われる仲間のうちには、又こんな風変りのもありました。
これはわたくしが子供の時に聞いた話ですから、天保初年のことゝ思ってください。赤坂の桐畑《きりばたけ》のそばに小坂丹下という旗本がありました。千五百石の知行取りで、その先代はお目附を勤めたとか聞いています。一口に旗本と云っても、身分にはなか/\高下があります。百石以上は旗本ですけれども、それらは所謂貧乏旗本で、先ずほんとうの旗本らしい格式を保ってゆかれるのは少くも三百石以上でしょう。五百石以上となれば立派なお歴々で、千石以上となれば大身《たいしん》、それこそ大威張りのお殿様です。そこで、この小坂さんの屋敷は千五百石というのですから、立派なお旗本であることは云うまでもありません。
当主の丹下という人は今年三十七の御奉公盛りですが、病気の届け出《い》でをして五六年まえから無役の小普請入りをしてしまいました。学問もある人で、若い時には聖堂の吟味に甲科で白銀三枚の御褒美を貰い、家督を相続してからも勤め向きの首尾もよく、おい/\出世の噂もきこえていたのですが、二十五六のときから此人にふと魔がさした。というのは、この人が芸事に凝り始めたのです。芸事も色々ありますが、清元の浄瑠璃に凝り固まってしまったのだから些《ちっ》と困ります。なんでもその皮切りは、同役の人の下屋敷へ呼ばれて行ったときに、その酒宴の席上で清元の太夫と知合いになったのだと云いますが、その先代も赤坂あたりの常磐津の女師匠を囲いものにしていたとか云う噂がありますから、遊芸については幾らか下地《したじ》があるというほどで無くとも、相当の趣味はあったのかも知れません。いずれにしても、その清元の師匠を自分の屋敷へよんでお稽古をはじめたのです。
おなじような理窟ですけれども、これが謡《うたい》の稽古でもして、熊坂や船弁慶を唸るのならば格別の不思議もないのですが、清元の稽古本にむかっておかる勘平や権八小紫を歌うことになると、どうもそこが妙なことになります。と云って、これがひどく筋の悪いことゝ云うほどでもないので、奥様や用人も開き直って意見をするわけにも行かず、困った道楽だと苦々しく思いながらも、先ずそのまゝにして置くうちに、主人の道楽はいよ/\募って来て、もう一廉《いっかど》の太夫さん気取りになってしまったのです。
むかしから素人の芸事はあまり上達しないにきまったもので、俗に素人芸、旦那芸、殿様芸、大名芸などと云って、先ず上手でないのが当りまえのようになっているのですが、この小坂という人ばかりは例
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