の療治では、とてもいけない。人参をのませれば屹《きっ》と癒ると思うが、それを云って聞かせても所詮無駄だと思ったから、黙って来ました。」
人参は高価の薬で、うら店《だな》ずまいの者が買い調えられる筈がないから、見殺しは気の毒だと思いながらも、それを教えずに帰って来たというのでした。その話を聴かされて、おつねは喜びもし、嘆きもしました。まったく今の身のうえで高価の人参などを買いとゝのえる力はありません。人参にも色々ありますが、その頃では廉《やす》くとも三両か五両、良い品になると十両二十両とも云うほどの値ですから、なか/\容易に手に入れられるものではない。ましてこの姉弟がどんなに工面しても才覚しても、そんな大金の調達の出来ないのは判り切っています。それでも何うかしておふくろを助けたい一心で、おつねは色々にかんがえ抜いた挙句に、思いついたのが例の身売です。
人参の代にわが身を売る――芝居や草双紙にはよくある筋ですが、おつねも差当りその外には思案もないので、とう/\その決心をきめたのでした。いっそ容貌が悪く生れたら、そんな気にもならなかったかも知れませんでしたが、おつねは鳥渡《ちょっと》可愛らしい眼鼻立で、みがき上げれば相当に光りそうな娘なので、自分も自然そんな気になったのかも知れません。それでも迂濶にそんなことは出来ませんから、念のために医者の家へ行って、おふくろの命は屹《きっ》と人参で取留められるでしょうかと聞きますと、十に九つまでは請合うと桂斎先生が答えたそうです。おつねは喜んで帰って来て、弟にその話をすると、久松も喜んだり嘆いたりで、しばらくは思案に迷ったのですが、姉の決心が固いのと、それより外には人参代を調達する智慧も工夫もないのとで、これもとう/\思い切って、姉に身売をさせることになってしまいました。
おつねは長屋の人にたのんで、山谷《さんや》あたりにいる女衒《ぜげん》に話して貰って、よし原の女郎屋へ年季一杯五十両に売られることになりました。家の名は知りませんが、大町小店《だいちょうこみせ》で相当に流行る店だったそうです。式《かた》のごとくに女衒の判代や身付《みづき》の代を差引かれましたが、残った金を医者のところへ持って行って、宜しくおねがい申しますと云うと、桂斎先生は心得て、そのうちから八両とかを受取って、すぐに人参を買って病人に飲ませてくれたが、おふくろの病気は矢はりよくならない。久松も心配して、色々に医者にせがむので、先生はまた十両をうけ取って人参を調剤したのですが、それも験《げん》がみえない。おふくろはいよ/\悪くなるばかりで、それから半月ほどの後にとう/\此世の別れになってしまったので、久松は泣いても泣き尽せない位で、とりあえず吉原の姉のところへ知らせてやりましたが、まだ初店《はつみせ》ですから出てくることは出来ません。長屋の人たちの手をかりて、久松は兎もかくもおふくろの葬式をすませました。
こうなると、おつねの身売は無駄なことになったようなわけで、これから十年の長いあいだ苦界《くがい》の勤めをしなければならないのですから、姉思いの久松は身を切られるように情《なさけ》なく思いました。それから惹いて、医者を怨むような気にもなりました。
「人参をのませれば屹《きっ》と癒ると請合って置きながら、あの医者はおふくろを殺した。それがために姉さんまでが吉原へ行くようになった。あの医者の嘘つき坊主め。あいつはおふくろの仇だ。姉さんのかたきだ。」
今日《こんにち》はそんなこともありませんが、病人が死ぬとその医者を怨むのが昔の人情で、川柳にも「見す/\の親のかたきに五|分礼《ふんれい》」などというのがあります。まして斯ういう事情が色々にからんでいるので、年の行かない久松は一層その医者を怨むようにもなり、自然それを口に出すようにもなったので、糸屋の主人は久松に同情もし、また意見もしました。
「人間には寿命というものがある。人参を飲んで屹《きっ》と癒るものならば、高貴のお方は百年も長命する筈だが、そうはならない。公方《くぼう》様でもお大名でも、定命《じょうみょう》が尽きれば仕方がない。金の力でも買われないのが人の命だ。人参まで飲ませても癒らない以上は、もうあきらめるの外はない。むやみに医者を怨むようなことを云ってはならない。」
理窟はその通りですが、どうも久松には思い切りが付きませんでした。姉の身売の金がまだ幾らか残っているのを主人にあずけて、自分は相変らず奉公していましたが、おふくろは此世に無し、姉には逢われず、まったく頼りのないような身の上になってしまったので、久松はもう働く張合もぬけて、ひどく元気のない人間になりました。毎月おふくろの墓まいりに行って、泣いて帰るのがせめてもの慰めで、いっそ死んでしまおうかなどと考えたこ
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