しかし前後の模様から考えると、どうも物取りの仕業ではないらしい。桂斎先生に対して何かの意趣遺恨のあるものだろうという鑑定で、町方《まちかた》でもそれ/″\に探索にかゝりました。さあ、これからは半七さんの縄張りで、わたくし共にはよく判りませんが、なにか抜きさしのならない証拠が挙ったとみえて、その下手人は間もなく召捕られました。それを召捕ったのが前にもいう通り、半七さんの養父の吉五郎という人です。
 その下手人はまだ前髪のある年季小僧で、人形町通りの糸屋に奉公している者でした。名は久松――丁稚《でっち》小僧で久松というと、なんだか芝居にでも出て来そうですが、本人は明けて十五という割に、からだの大きい、眼の大きい、見るから逞しそうな小僧だったそうです。しかし運のわるい子で、六つの年に男親に死別れて、姉のおつねと姉弟《きょうだい》ふたりは女親の手で育てられたのです。勿論、株家督《かぶかとく》があるというでは無し、芳町のうら店《だな》に逼塞して、おふくろは針仕事や洗濯物をして、細々にその日を送っているという始末ですから、久松は九つの年から近所の糸屋へ奉公にやられ、姉は十三の年から芝口の酒屋へ子守奉公に出ることになって、親子三人が分れ/\に暮していました。そんなわけで、碌々に手習の師匠に通ったのでも無し、誰に教えられたのでも無く、云わば野育ち同様に育って来たのですが、不思議にこの姉弟は親思い、姉思い、弟思いで、おたがいに奉公のひまを見てはおふくろを尋ねて行く。姉は弟をたずねる。弟も姉の身を案じて、使の出先などからその安否をたずねに行く。まことに美しい親子仲、姉弟仲でした。
 これほど仲が好《い》いだけに、親子姉弟が別々に暮していると云うことは、定めて辛かったに相違ありません。それでも行末をたのしみに、姉も弟も真面目に奉公して、盆と正月の藪入りにはかならず芳町の家にあつまって、どこへも行かずに一日話し合って帰ることにきめていたので、その日も暮れかゝって姉弟がさびしそうに帰ってゆくうしろ姿を見送ると、相《あい》長屋の人達もおのずと涙ぐまれたそうです。
「久ちゃんは男だから仕方もないが、せめておつねちゃんだけは家《うち》にいるようにして遣りたいものだ。」と、近所でも噂をしていました。
 おふくろも然う思わないではなかったでしょうが、おつねを奉公に出して置けば、一人口が減った上に一年幾らかの給金が貰える。なにを云うにも苦しい世帯ですから、親子がめでたく寄合う行末を楽みに、まあ/\我慢しているというわけでした。どの人も勿論そうでしょうが、取分けてこの親子三人は「行末」という望みのためばかりに生きているようなものだったのです。
 ところが、神も仏も見そなわさずに、この親子の身のうえに悲しい破滅が起ったのです。その第一はおふくろが病気になったことで、おふくろはまだ三十八、ふだんから至極丈夫な質だったのですが、安政二年、おつねが十七、久松が十四という年の春から不図煩いついて、三月頃にはもう枕もあがらないような大病人になってしまいました。姉弟の心配は云うまでもありません。おつねは主人に訳を話して、無理に暇を貰って帰って、一生懸命に看病する。久松も近所のことですから、朝に晩に見舞にくる。長屋の人たちも同情して、共々に面倒を見てくれたのですが、おふくろの容態はいよ/\悪くなるばかりです。今までは近所の小池玄道という医者にかゝっていたのですが、どうもそれだけでは心もとないと云うので、中途から医者を換えて、彼の舟見桂斎先生をたのむことになりました。評判のいゝ医者ですから、この人の匕加減でなんとか取留めることも出来ようかと思ったからでした。
 桂斎先生は流行《はやり》医者ですから、うら店などへはなか/\来てくれないのを、伝手《つて》を求めてよう/\来て貰うことにしたのですが、先生は病人の容態を篤とみて眉をよせました。
「これは容易ならぬ難病、所詮わたしの匕にも及ばぬ。」
 医者に匕を投げられて、姉も弟もがっかりしました。ふたりは病人の枕もとを離れることが出来ないので、長屋の人にたのんで医者を送って貰って、あとは互いに顔を見あわせて溜息をつくばかりでした。この頃はめっきり痩せた姉の頬に涙が流れると、弟の大きい眼にも露が宿る。もうこの世の人ではないような母の寝顔を見守りながら、運のわるい姉弟はその夜を泣き明かしました。芝居ならば、どうしてもチョボ入りの大世話場《おおせわば》というところです。

       二

 それだけで済めば、姉弟の不運は寧ろ軽かったのかも知れませんが、あくる朝になっておつねは長屋の人から斯ういうことを聴きました。その人がゆうべ医者を送って行く途中で、あのおふくろさんは何うしてもいけないのですかと聞くと、桂斎先生は斯う答えたそうです。
「並一通り
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