。だん/\仔細をきいて、みんなも顔をしかめたが、半蔵の二の舞はおそろしいので、誰も進んで奥へ見とゞけに行くものがない。しかし小半時ほど立っても、奥の座敷はひっそりとしているらしいので、三人が一緒に繋がって怖々ながら覗きに行くと、今宮さんは鎧櫃を座敷のまん中へ持出して、それに腰をかけて腹を斬っていました。
[#改段]
人参
一
その日は三浦老人の家《うち》で西洋料理の御馳走になった。大久保にも洋食屋が出来たという御自慢であったが、正直のところ余り旨くはなかった。併しもと/\御馳走をたべに来たわけでないから、わたしは硬いパンでも硬い肉でも一切鵜呑みにする覚悟で、なんでも片端から頬張っていると、老人はあまり洋食を好まないらしく、且は病後という用心もあるとみえて、ほんのお附合に少しばかり食って、やがてナイフとフォークを措いてしまった。
「わたしには構わずに喫《た》べてください。」
「遠慮なく頂戴します。」と、わたしは喉に支えそうな肉を一生懸命に嚥《の》み込みながら云った。食道楽のために身をほろぼした今宮という侍に、こんな料理を食わせたら何というだろうかなどとも考えた。
「今お話をした今宮さんのようなのが其昔にもあったそうですよ。」と、老人はまた話し出した。「名は知りませんが、その人は大阪の城番に行くことになったところが、屋敷に鎧が無い。大方売ってしまったか、質にでも入れてしまったのでしょう。さりとて武家の御用道中に鎧櫃を持たせないというわけにも行かないので、空の鎧櫃に手頃の石を入れて、好《いゝ》加減の目方をつけて坦ぎ出させると、それが途中で転げ出して大騒ぎをしたことがあるそうです。これも困ったでしょうね。はゝゝゝゝゝ。」
老人はそれからつゞけて幕末の武家の生活状態などを色々話してくれた。果し合いや、辻斬や、かたき討の話も出た。
「西鶴の武道伝来記などを読むと、昔はむやみに仇討があったようですが、太平がつゞくに連れて、それもだん/\に少くなったばかりでなく、幕府でも私《わたくし》にかたき討をすることを禁じる方針を取っていましたし、諸藩でも表向きには仇討の願いを聴きとどけないのが多くなりましたから、自然にその噂が遠ざかって来ました。それでも確かに仇討とわかれば、相手を殺しても罪にはならないのですから、武家ばかりでなく、町人、百姓のあいだにも仇討は時々にありました。なにしろ芝居や講釈ではかたき討を盛に奨励していますし、世間でも褒めそやすのですから、やっぱり根切《ねき》りというわけには行かないで、とき/″\には変った仇討も出て来ました。これもその一つです。いや、これは赤坂へ行って半七さんにお聴きなすった方がいゝかも知れない。あの人の養父にあたる吉五郎という人もかゝり合った事件ですから。」
「いえ、赤坂も赤坂ですが、あなたが御承知のことだけは今こゝで聴かせて頂きたいもんですが、如何でしょう。」と、わたしは子供らしく強請《ねだ》った。
「じゃあ、まあお話をしましょう。なに、別に勿体をつけるほどの大事件ではありませんがね。」
老人は笑いながら話しはじめた。
安政三年の三月――御承知の通り、その前年の十月には彼の大地震がありまして、下町は大抵焼けたり潰れたりしましたが、それでももう半年もたったので、案外に世直しも早く出来て、世間の景気もよくなりました。勿論、仮普請も沢山ありましたが、金廻りのいゝのや、手廻しの好《い》いのは、もう本普請をすませて、みんな商売をはじめていました。猿若町の芝居も蓋をあけるという勢いで、よし原の仮宅《かりたく》は大繁昌、さすがはお江戸だと諸国の人をおどろかしたくらいでした。
なんでもその三月の末だとおぼえています。日本橋新乗物町に舟見《ふなみ》桂斎という町医者がありましたが、診断《みたて》も調合も上手だというのでなか/\流行っていました。小舟町三丁目の病家を見舞って、夜の五つ頃(午後八時)に帰ってくると、春雨がしと/\降っている。供の男に提灯を持たせて、親父橋《おやじばし》を渡りかゝると、あとから跟《つ》けて来たらしい一人の者が、つか/\と寄って来て、先ず横合から供の提灯をたゝき落して置いて、いきなりに桂斎先生の左の胸のあたりを突きました。先生はあっと云って倒れる。供はびっくりして人殺し人殺しと呼び立てる。その間に相手はどこへか姿を隠してしまいました。
桂斎先生の疵は脇差のようなもので突かれたらしく、駕籠にのせて自宅へ連れて帰りましたが、手あての甲斐もなしに息を引取ったので、騒ぎはいよ/\大きくなりました。雨のふる晩ではあり、最初に提灯をたゝき消されてしまったので、供の者も相手がどんな人間であるか、どんな服装《なり》をしていたか、些《ちっ》とも知らないと云うのですから、手がかりはありません。
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