けているようです。その樽も醤油も川へ流してしまって、櫃のなかも綺麗に洗って、それへ雲助の首と胴とを入れました。今度は半蔵がその鎧櫃を背負って、勇作が附いて行くことになりました。
 三島の宿の問屋場ではこの鎧櫃をとゞけられて驚きました。それには今宮さんの手紙が添えてありました。
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先刻は御手数相掛過分に存候。拙者鎧櫃の血汐、いつまでも溢れ出して道中迷惑に御座候間、一応おあらための上、よろしく御取捨|被下度《くだされたく》、右重々御手数ながら御願申上候。早々
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[#地から2字上げ]今宮六之助
  問屋場御中

 問屋場では鎧櫃を洗いきよめて、使のふたりに戻しました。これで鎧櫃からこぼれ出した紅い雫も、ほんとうの血であったと云うことになります。沼津の宿の方の届も型ばかりで済みました。一方は侍、一方は雲助、しかも御用道中の旅先というのですから、可哀そうに平作は殺され損、この時代のことですから何うにも仕様がありません。
 今宮さんはその後の道中に変ったこともなく、主従五人が仲よく上って行ったのですが、彼の一件以来、どうも気が暴《あら》くなったようで、左もないことにも顔色を変えて小言を云うこともある。しかしそれは一時のことで、あとは矢張り元の通りになるので、家来共も別に気にも留めずにいると、京ももう眼の前という草津の宿《しゅく》に這入る途中、二三日前からの雨つゞきで路がひどく悪いので、今宮さんの一行はみな駕籠に乗ることになりました。その時に、中間の半蔵が例の手段で駕籠をゆすぶって、駕籠屋から幾らかの揺すり代をせしめたことが主人に知れたので、今宮さんは腹を立てました。
「貴様は主人の面に泥を塗る奴だ。」
 半蔵はさん/″\に叱られましたが、勇作の取りなしで先ず勘弁して貰って、霧雨のふる夕方に草津の宿に着きました。宿屋に這入って、今宮さんは草鞋をぬいでいる。家来どもは人足にかつがせて来た荷物の始末をしている。その忙しいなかで、半蔵が人足にこんなことを云いました。
「おい、おい。その具足櫃は丁寧にあつかってくれ。今日は危なくおれの首を入れられるところだった。塩っ辛《かれ》え棺桶は感心しねえ。」
 それが今宮さんの耳に這入ると、急に顔の色が変りました。草鞋をぬいで玄関へあがりかけたのが、又引返して来て激しく呼びました。
「半蔵。」
「へえ。」
 何心なく小腰をかゞめて近寄ると、ぬく手も見せずと云うわけで、半蔵の首は玄関先に転げ落ちました。前の雲助の時とは違って、勇作もほかの中間共もしばらく呆れて眺めていると、不埓の奴だから手討にした、死骸の始末をしろと云いすてて、今宮さんは奥へ這入ってしまいました。
 主人がなぜ半蔵を手討にしたか。勇作等も大抵は察していましたが、表向きは彼のゆすりの一件から物堅い主人の怒に触れたのだと云うことにして、これも先ず無事に片附きました。
 それから大阪へゆき着いて、今宮さんは城内の小屋に住んで、とゞこおりなく勤めていました。かの鎧櫃は雲助の死骸を入れて以来、空のまゝで担がせて来て、空のままで床の間に飾って置いたのでした。なんでも九月のはじめだそうで、今宮さんは夕方に詰所から退って来て、自分の小屋で夕飯を食いました。たんとも飲まないのですが、晩酌には一本つけるのが例になっているので、今夜も機嫌よく飲んでしまって、飯を食いはじめる。勇作が給仕をする。黄《きいろ》い行燈が秋の灯らしい色をみせて、床の下ではこおろぎが鳴く。今宮さんは飯をくいながら、今日は詰所でこんな話を聴いたと話しました。
「この城内には入らずの間というのがある。そこには淀殿が坐っているそうだ。」
「わたくしもそんな話を聴きましたが、ほんとうでござりましょうか。」と、勇作は首をかしげていました。
「ほんとうだそうだ。なんでも淀殿がむかしの通りの姿で坐っている。それを見た者は屹と命を取られると云うことだ。」
「そんなことがござりましょうか。」と、勇作はまだ疑うような顔をしていました。
「そんなことが無いとも云えないな。」
「そうでござりましょうか。」
「どうもありそうに思われる。」
 云いかけて、今宮さんは急に床の間の方へ眼をつけました。
「論より証拠だ。あれ、みろ。」
 勇作の眼にはなんにも見えないので、不思議そうに主人の顔色をうかゞっていると、今宮さんは少し乗り出して床の間を指さしました。
「あれ、鎧櫃の上には首が二つ乗っている。あれ、あれが見えないか。えゝ、見えないか。馬鹿な奴だ。」
 主人の様子がおかしいので、勇作は内々用心していると、今宮さんは跳るように飛びあがって、床の間の刀掛に手をかけました。これはあぶないと思って、勇作は素早く逃げ出して、台所のそばにある中間部屋へ転げ込んだので、勘次も源吉もおどろいた
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