ともありましたが、姉は生きている。年季が明ければ姉は吉原から帰ってくる。それを楽みに、久松はさびしいながらも矢はり生きていました。
 そのうちに、又こんなことが久松の耳に這入りました。初めておふくろの病気をみていた小池という医者が、途中で取換えられたのを面白く思っていなかったのでしょう、それに同商売|忌敵《いみがたき》というような意味もまじっていたのでしょう。その後近所の人達にむかって、あの病人に人参をのませて何になる。いくら人参だと云っても万病に効のあるというものではない。利かない薬をあてがうのは、見す/\病家に無駄な金を使わせるようなものだ。高価な薬をあたえれば、医者のふところは膨らむが、病家の身代は痩せる。医は仁術で、金儲け一点張りではいけないなどと云う。それが自然に久松にもきこえましたから、いよ/\心持を悪くしました。それでは桂斎の医者坊主め、みす/\利かないのを知っていながら、金儲けのために高い人参を売り付けたのかも知れないという疑いも起ってくる。桂斎先生は決してそんな人物ではないのですが、ふだんから怨んでいるところへ前のような噂が耳にひゞくので、年の行かない久松としては、そんな疑いを起すのも無理はありません。商売の累《わずら》いと云いながら、桂斎先生も飛んだ敵《かたき》をこしらえてしまいました。
 それでもまあそれだけのことならば、蔭で怨んでいるだけで済んだのですが、桂斎先生のためにも、久松姉弟のためにも、こゝに又とんでもない事件が出来《しゅったい》したのです。それはその年十月の大地震――この地震のことはどなたも御承知ですから改めて申上げませんが、江戸中で沢山の家が潰れる、火事が起る、死人や怪我人が出来る。そのなかでも吉原の廓《くるわ》は丸潰れの丸焼けで、こゝだけでもおびたゞしい死人がありました。おつねの勤めている店も勿論つぶれて、おつねは可哀そうに焼け死にました。久松の店も潰れたが、幸いに怪我人はありませんでした。桂斎先生の家は半分かたむいたゞけで、これも運よく助かりました。
 おふくろは死ぬ、それから半年ばかりのうちに姉もつゞいて死んだので、久松は一人|法師《ぼっち》になってしまいました。おふくろのない後は、たゞ一本の杖柱とたのんでいた姉にも死別れて、久松はいよ/\力がぬけ果てゝ、自分ひとりの助かったのを却って悔むようになりました。おまけに姉のおつねが以前奉公していた芝口の酒屋は、土台がしっかりしていたと見えて、今度の地震にも家根瓦をすこし震い落されたゞけでびく[#「びく」に傍点]ともせず、運よく火事にも焼け残ったので、久松はいよ/\あきらめ兼ねました。姉も今までの主人に奉公していれば無事であったものを、吉原へ行ったればこそ非業の死を遂げたのである。姉はなんのために吉原へ売られて行ったのか。高価の人参は母の病を救い得ないばかりか、却って姉の命をも奪う毒薬になったのかと思うと、久松は日本朝鮮にあらんかぎりの人参を残らず焼いてゞもしまいたい程に腹が立ちました。その人参を売りつけた医者坊主がます/\憎い奴のように思われて来ました。
 糸屋の店では一旦小梅の親類の家《うち》へ立退いたので、久松も一緒に附いて行きました。場所柄だけに、店の方はすぐに仮普請に取りかゝって、十二月には兎もかくも商売をはじめるようになったので、主人や店の者は日本橋へ戻りましたが、焼跡の仮小屋同様のところでは女子供がこの冬を過されまいというので、主人の女房や娘子供は矢はり小梅の方に残っていることになりました。それがために小僧もひとり残されることになったので、久松がその役にあたって、あくる年の正月を小梅で迎えました。そのうちに三月の花が咲いて、陽気もだん/\にあたゝかくなり、世間の景気も春めいて来たので、主人の家族もみんなこゝを引払うことになって、久松もはじめて日本橋の店へ戻ってくると、土地が近いだけに憎い怨めしい医者坊主めのことが一層強く思い出されます。勿論、小梅にいるあいだも毎日忘れたことはなかったのですが、近間へ戻ってくると又一倍にその執念が強くなって来ました。
 三月末の陰《くも》った日に、久松が店の使で表へ出ると、途中で丁度、桂斎先生に逢いました。はっと思いながらも、よんどころなしに会釈をすると、先生の方では気が注かなかったのか、それともそんな小僧の顔はもう見忘れてしまったのか、素知らぬ風でゆき過ぎたので、久松は赫《かっ》となりました。使をすませて主人の店へ一旦帰って、奥にいる女房のまえに出て、去年からあずけてある金のうちで一両だけを渡して貰いたいと云いました。なんにするのだと聞くと、おふくろの一周忌がもう近づいたから、お長屋の人にたのんで石塔をこしらえて貰うのだという返事です。久松の孝行は女房もかねて知っているので、それは奇特のことだと
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