花がゆう闇のなかに仄《ほの》かに揺れていたのが、今でもわたくしの眼に残っております。
「町や。」と、奥様はわたくしの名をお呼びになりました。「朝はどうしています。」
「わたくしと入れ替って、お風呂を頂いて居ります。」
奥様はだまって首肯いていらっしゃいましたが、やがて低い声で、こう仰しゃいました。
「町や、お前は浅草に知合いの者が多かろう。踊の師匠も識っていますね。」
「はい、存じて居ります。」
わたくしは花川戸の坂東小翫という踊の師匠に七年ほども通いまして、それを云い立てに御奉公にあがったくらいでございますから、勿論その師匠をよく存じて居ります。師匠はもう四十二三の女で、弟子も相当にございました。その弟子のうちに市川照之助という若い役者のあることを、わたくしから奥様にお話し申上げたこともございました。奥様は今夜それを不意に仰せ出されまして、お前はその照之助を識っているかと云うお訊ねでございましたが、実のところ、わたくしはその照之助をよく識らないのでございます。いえ、舞台の上ではたび/\見て居りますけれども、わたくしが師匠をさがる少し前から稽古に来た人ですし、男と女ですから沁々と口を聞いたこともありませんし、唯おたがいに顔をみれば挨拶するくらいのことで、同じ師匠の格子をくゞりながらも、ほんの他人行儀に附き合っていたのですから、先方ではもう忘れているかも知れないくらいです。で、わたくしは其通りのことを申上げますと、奥様は黙って少し考えていらっしゃいましたが、又こう仰しゃいました。
「お前はよく識らないでも、その師匠は照之助をよく識っていましょうね。」
「それは勿論のことでございます。」
奥様はわたくしを頤でお招きになりまして、御自分のそばへ近く呼んで、その照之助に一度逢うことは出来まいかという御相談がありました。わたくしも一時は返事に困って、なんと申上げてよいか判りませんでしたが、唯今とは違いまして、その時分の人間は主命ということを大変に重いものに考えて居りましたのと、わたくしもまだ年が若し、根が浅薄《あさはか》な生れ附きでございますのとで、とう/\其役目を引受けてしまったのでございます。約《つま》りわたしから師匠の小翫にたのんで、師匠から照之助に話して貰って、照之助をこの御下屋敷へ呼ぼうと云うのでございます。
照之助というのは、そのころ二十一二の女形《おやま》で、二町目――市村座でございます――に出て居りましたが、年が若いのと家柄が無いせいでございましょう。余り目立った役も付きませんで、いつもお腰元か茶屋娘ぐらいが関の山でしたが、この盆芝居の時にどうしてか、おなじお腰元でも少し性根のある役が付きまして、その美しい舞台顔がわたくしどもの眼に初めてはっきり[#「はっきり」に傍点]と映りました。奥様も可愛らしい役者だと褒めておいでになりました。今になって考えますと、この御下屋敷へ御引移りになりましたのも、コロリの為ばかりではなかったのかも知れません。全くその照之助と申しますのは、少し下膨れの、眼つきの美しい、まるでほんとうの女かと思われるような可愛らしい男でございました。
奥様は手文庫から二十両の金を出して、わたくしにお渡しになりました。これは照之助に遣るのではない、その橋渡しをしてくれる師匠に遣るのだと云うことでございました。そこへお朝が風呂から帰ってまいりましたので、お話はそのまゝになりました。
わたくしはその明る日、すぐに浅草の花川戸へまいりまして、むかしの師匠の家をたずねました。そうして、ゆうべの話しを竊《そっ》といたしますと、小翫も一旦は首をかしげていました。それは相手が武家の奥方であるのと、もう一つには、わたくしの年がまだ若いので何をいうのかと疑っているので、すぐにはなんとも挨拶をしないらしく見えましたから、わたくしは袱紗につゝんだ金包みを出して師匠の眼の前に置きました。二十両――その時分には実に大金でございます。師匠もそれをみて安心したのでしょう。安心というよりも、その大金をみて急に慾心が起ったのでしょう。わたくしの云うことを信用して、それから真面目に相談相手になってくれました。
「照之助さんもこれから売出そうと云うところで、懐がなか/\苦しいんですからね。そこを奥様によくお話しください。」
どうせ金の要るのは判り切っていることですから、わたくしも承知して別れました。今おもえば実に大胆ですが、そのときには使者の役目を立派につとめ負《おお》せたという手柄自慢が胸一杯になって、わたくしは勇ましいような心持で目黒へ帰りました。帰って奥様に申上げると、奥様も大層およろこびで、その御褒美に縮緬のお小袖を下されました。
「朝に申しても宜しゅうございますか。」と、わたくしは奥様にうかがいました。ほかの女中は兎もあれ、お
前へ
次へ
全60ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング