一月には例年の通り猿若町の三芝居に役者の入替りはありましたが、顔見世狂言は見合せになりました。これから申上げますのは、その役者のお話でございます。
 一体わたくしのお屋敷では、殿様を別として、どなたもお芝居がお好きでございました。殿様は御養子で今年丁度三十でいらっしゃるように承って居りました。奥様は七つ違いの二十三で、御縁組になってから既《も》う六年になるそうですが、まだ御子様は一人もございませんでした。御先代の奥様は芳桂院様と仰せられまして、目黒の御下屋敷の方に御隠居なすっていらっしゃいましたが、このお方が歌舞伎を大層お好きでございまして、殊に御隠居遊ばしてからは世間に御遠慮も少いので、三芝居を替り目毎にかならず御見物なさると云うほどの御贔屓でございました。そのお血をお引きになったのかも知れません、奥様もやはりお芝居がお好きで、いつも芳桂院様のお供で御見物にお出掛けなさいました。殿様は苦々しいことに思召していたに相違ありませんが、なにぶんにも家柄の低い家から御養子にいらっしゃったと云う怯味《ひけみ》があるので、まあ大抵のことは黙って大目に見ていらしったようでございます。それでも、芳桂院様は一度こんなことを仰せられたことがございました。
「わたしの生きている中《うち》はよろしいが、わたしの亡い後には女どもの芝居見物は一切止めさせたい。」
 鳥渡《ちょっと》うけたまわりますと、なんだか手前勝手のお詞《ことば》のようにも聞えます。自分の生きているうちは芝居を見ても差支えないが、自分の死んだあとには誰も芝居を見てはならぬ――それほどに見て悪いものならば、御自分が先ずお見合せになったら好さそうなものだと、誰もまあ云いたくなります。まして芝居見物のお供を楽みにしている女中達ですもの、誰だってそれをありがたく聞くものはありません。わたくしにしても、恐れながら御隠居様が手前勝手の仰せのように考えて居りましたのは、全くわたくしどもの考えが至らなかったのでございます。
 芳桂院様は四月の末におなくなり遊ばして、目黒の方はしばらく空《あき》屋敷になって居りましたが、その八月の末頃から奥様が一時お引移りということになりました。それは例のコロリがだん/\に本郷小石川の方へも拡がってまいりましたので、今日で申せば転地というような訳で、御下《おしも》屋敷の方へお逃げになったのでございます。その当時、目黒の辺はまるで片田舎のようでございましたから、流石のおそろしい流行病もそこまでは追掛けて来なかったのでございます。奥様にはお気に入りの女中が二人附いてまいりました。それはお朝《あさ》という今年二十歳の女と、わたくしとの二人で、さびしい御下屋敷へ参るのはなんだか島流しにでも逢ったような心持も致しましたが、御上《おかみ》屋敷よりも御下屋敷の方が御奉公もずっ[#「ずっ」に傍点]と気楽でございます、万事が窮屈でありません。もう一つには、例のコロリの噂を聞かないだけでも心持がようございます。かたがたして、わたくし共も別に厭だとも思わないで、奥様のお供をしてまいりました。御下屋敷には以前からお留守居をしている稲瀬十兵衛という老人のお侍夫婦のほかに、お竹とお清《きよ》という二人の女中が居りました。そこへわたくし共がお供をして参ったのですから、御下屋敷の女中は四人になったわけで、急に賑やかになりました。
 併しそのお竹とお清とは、どちらも御知行所《ごちぎょうしょ》から御奉公に出ましたもので、江戸へ出るとすぐに御下屋敷の方へ廻されたのですから、まあ山出しも同様で江戸の事情などはなんにも知らないようでした。大勢の女中の中からわたくしども二人がお供に選まれましたのは、前にも申上げた通り、奥様のお気に入りで、いつも芝居のお供をしていたからでございましょう。目黒へまいってからも、奥様はわたくし共をお召しなすって、毎日芝居のお話をなすっていらっしゃいました。わたくし共も喜んで役者の噂などをいたして居りました。
 わたしの亡い後は――と、芳桂院様が仰しゃっても矢はりそうはまいりません。芳桂院様がおなくなりになった後でも、奥様はたび/\お忍びで猿若町へお越しになりました。わたくし共もそれを楽みに御奉公致して居るようなわけでございました。目黒へまいりましてから、一月ばかりは何事もございませんでしたが、忘れも致しません、九月の二十一日の夕方でございました。わたくしがお風呂を頂いて、身化粧《みじまい》をして、奥へまいりますと、奥様は御縁の端《はな》に出て、虫の声でも聞いていらっしゃるかのように、じっ[#「じっ」に傍点]と首をかしげていらっしゃいました。なにしろ、あの辺のことでございますし、御下屋敷の方は御手入れも自然怠り勝になって居りますので、お庭には秋草が沢山にしげっていて、芒《すゝき》の白い
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