具のあいだに押込んでありました。手早くひき摺り出して腰にさすと、又うしろから掴み付く奴がある。なにしろ多勢に無勢ですし、こっちも少し逆上《のぼ》せていますから、もうなんの考えもありません。大次郎は掴みつく奴を力まかせに蹴放して、また寄って来ようとするところを抜撃ちに斬りました。
「わあ、人殺しだ。」
 騒ぎまわる奴等をつゞいて二三人斬り倒して、大次郎は二階からかけ降りました。
 びっくりしている駕籠屋にむかって、大次郎は叱るように云いました。
「いそいで吉原へやれ。」
 駕籠屋も夢中でかつぎ出しました。

「実に飛んだことになったものですよ。」と、三浦老人はため息をついた。「大次郎という人はその足で吉原へ飛んで行って、諸越花魁に逢って、式《かた》のごとくに雷見舞の口上をのべて帰りました。帰っただけならばいゝのですが、屋敷へ帰ってから切腹したそうです。相手が相手ですから、あるいは殺し得で済んだかも知れなかったのですが、兎も角それだけの騒ぎを仕出来したので、世間の手前、屋敷でも捨てゝ置かれなかったのか。それともお使に出た途中で、こんなことを仕出来《しでか》しては申訳がないというので、当人が自分から切腹したのか。それとも表向きになっては雷見舞の秘密が露顕するというので、当人に因果をふくめて自滅させたのか。そこらの事情はよく判りませんが、いずれにしても一人の侍がよし原へ雷見舞にやられて、結局痛い腹を切るようになったのは事実です。料理屋の方でも二人は即死、ほかの怪我人は助かったそうです。」
「まったく飛んだことになったものでした。」と、わたしも溜息をついた。「その後もその大名はよし原へ通っていたのですか。」
「いや、それに懲りたとみえて、その後は一切足踏み無しで、諸越花魁も大事のお客をとり逃してしまったわけです。」
 云いながら老人は老女の顔を横目にみた。わたしも思わず彼女の顔をみた。三人の眼が一度に出逢うと、老女はあわてゝ俯向いてしまった。しばしの沈黙の後に、老人は庭をみながら云った。
「さっきの雷で梅雨もあけたと見えますね。」
 庭には明るい日が一面にかゞやいていた。
[#改段]

下屋敷

       一

 その次に三浦老人をたずねると、又もや一人の老女が来あわせていた。但し彼女はこの間の「雷見舞」の女主人公とは全く別人で、若いときには老人と同町内に住んでいた人だと云うことであった。
 老人はかれを私に紹介して、この御婦人も色々の面白い話を知っているから、ちっと話して貰えと云うので、わたしはいつもの癖で、是非なにか聴かしてくださいと幾たびか催促すると、この老女もやはり迷惑そうに辞退していたが、とう/\私に責め落されて、丁寧な口調でしずかに語り出した。

 はい。年を取りますと、近いことはすぐに忘れてしまって、遠いことだけは能く覚えているとか申しますけれど、矢はりそうも参りません。わたくし共のように年を取りますと、近いことも遠いこともみんな一緒に忘れてしまいます。なにしろもう六十になりますんですもの、そろ/\耄碌しましても致方がございません。唯そのなかで、今でもはっきり[#「はっきり」に傍点]覚えて居りまして、雨のふる寂しい晩などに其時のことを考え出しますとなんだかぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするようなことが唯《た》った一つございます。はい、それを話せと仰しゃるんですか。なんだか忌《いや》なお話ですけれども、まあ、わたくしの懺悔ながらに、これからぼつ[#「ぼつ」に傍点]/\お話し申しましょうか。
 それは安政五年――午《うま》年のことでございます。わたくしは丁度十八で、小石川巣鴨町の大久保式部少輔様のお屋敷に御奉公に上っておりました。お高は二千三百石と申すのですから、御旗本のなかでも歴々の御大身でございました。今のお若い方々はよく御存じでございますまいが、千石以上のお屋敷となりますと、それはそれは御富貴なもので、御家来にも用人、給人、中小姓、若党、中間のたぐいが幾人も居ります。女の奉公人にも奥勤めもあれば、表勤めもあり、お台所勤めもあって、それも大勢居りました。わたくしは十六の春から奥勤めにあがりまして、あしかけ三年のあいだ先ず粗相も無しに勤め通して居りました。
 安政午年――御承知の通り、大コロリの流行った怖ろしい年でございました。併しそれは重《おも》に下町のことで、山の手の方には割合に病人も少のうございましたから、お屋敷勤めのわたくし共はその怖ろしい噂を聞きますだけで、そんなに怯えるほどのこともございませんでした。勿論、八月の朔日《ついたち》から九月の末までに、江戸中で二万八千人も死んだと云うのでございますから、その噂だけでも実に大変で、さすがの江戸も一時は火の消えたように寂しくなりました。そう云うわけでございますから、その十
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