朝には得心させて置かないと、照之助を引き込むのに都合が悪いと思ったからでございます。奥様もそれを御承知で、朝にだけは話してもよいと仰しゃいました。お朝も奥様の前へ呼ばれまして、幾らかのお金を頂戴しました。

       二

 それから五日ほど経って、わたくしが花川戸へ様子を訊きにまいりますと、師匠はもう照之助に吹き込んで置いてくれたそうで、いつでも御都合のよい時にお屋敷へうかゞいますと云う返事でございました。では、あしたの晩に来てくれという約束をいたしまして、わたくしは今日も威勢よく帰って来ました。すぐに奥様にそのお話をして、それから自分の部屋へ退ってお朝にも竊《そっ》と耳打ちを致しますと、お朝はなぜだか忌《いや》な顔をしていました。
 その明る日――わたくしは朝からなんだかそわ[#「そわ」に傍点]/\して気が落着きませんでした。奥様は勿論ですが、自分も髪をゆい直したり、着物を着かえたり、よそ行きの帯を締めたりして、一生懸命にお化粧《つくり》をして、日の暮れるのを待っていました。お朝はきょうも厭な顔をしていました。
「わたしはなんだか頭痛がしてなりません。もしやコロリにでもなったんじゃ無いかしら。」
「まさか。」と、わたくしは笑いました。「今夜は照之助が来るんじゃありませんか。おまえさんも早く髪でも結い直してお置きなさいよ。照之助はおまえさんの御贔屓役者じゃありませんか。」
 お朝は黙っていました。お朝も盆芝居から照之助を大変に褒めていることを知っていますから、わたくしも笑いながら斯う云ったのですが、お朝は莞爾《にこり》ともしませんでした。お朝はどちらかと云えば大柄の、小ぶとりに肥った女で、色も白し、眼鼻立もまんざら悪くないのですが、疱瘡のあとが顔中に薄く残って、俗に薄いも[#「いも」に傍点]という顔でした。とりわけて眉のあたりにその痕が多く残っているので、眉毛は薄い方でした。ほんとうのあばた[#「あばた」に傍点]面さえ沢山にある時代ですから、薄いも[#「いも」に傍点]ぐらいはなんでもありません。誰も別に不思議には思っていませんでしたが、当人はひどくそれを気にしているらしく、時々に鏡を見つめて悲しそうに嘆息《ためいき》をついていることがあるので、わたくしもなんだか可哀そうに思ったことも度々ありました。お朝は今日も、その鏡を見つめたときと同じような悲しい顔をして、いつまでも黙っていました。
「おまえさん。今夜は照之助が来るんですよ。」と、わたくしは少しはしゃい[#「はしゃい」に傍点]だ調子で、お朝の肩を一つ叩きました。なんという蓮葉なことでございましょう。今考えると冷汗が出ます。
「奥様のところへ来るんじゃありませんか。」と、お朝は口のうちで云いました。
「そりゃあたりまえさ。可いじゃありませんか。」と、わたくしは又笑いました。わたくしは朝から無暗に笑いたくって仕様がないので、お朝をその相手にしようと思って、さっきから色々に誘いかけるのですが、お朝はどうしても口脣《くちびる》を解《ほぐ》しませんでした。わたくしが笑えば笑うほど、お朝の顔はだん/\に陰《くも》って来て、碌々に返事もしませんでした。
「今夜は四つ(午後十時)を相図に、照之助はお庭の木戸口へ忍んで来るから、木戸をあけてすぐに奥へ連れて行くんでよ。よござんすか。」と、わたくしは低い声で話しました。
「わたしは気分が悪くっていけないから、今夜の御用は勤められないかも知れません。お前さん、何分たのみます。」と、お朝は元気のない声で云いました。
 気分が悪いと云うのですからどうも仕方がありません。わたくしもよんどころなしに黙ってしまいました。秋の日は短いと云いますけれども、きょうの一日はなか/\暮れませんので、わたくしは起ったり居たりして、日のくれるのを待っていました。どうも自分の部屋にじっ[#「じっ」に傍点]と落着いていられないので、わたくしはお庭口から裏手の方へふら[#「ふら」に傍点]/\出て行きますと、うら手の井戸のそばにお朝がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と立っていました。時刻はもう七つ(午後四時)下りでしたろう。薄いゆう日が丁度お朝のうしろに立っている大きい柳の痩せた枝を照らして、うす白く枯れかゝったその葉の影がいよ/\白く寂しくみえました。そこらの空地には色のさめた葉鶏頭が将棋倒しに幾株も倒れていて、こおろぎが弱い声で鳴いていました。お朝は深い井戸を覗いているらしゅうございましたが、その澄んだ井戸の水には秋の雲が白く映ることをわたくし共は知っています。お朝も屹《きっ》とその雲の姿をながめているのであろうと推量しましたので、別に嚇《おど》かして遣ろうという積りでもありませんでしたが、わたくしはなんという気もなしに抜足をして、そっと井戸の方へ忍んで行きますと、お
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