、廓内の勝手はよく心得ています。たゞ困ったことには、この人も雷嫌いで、稲妻がぴかりと光ると、あわてゝ眼をつぶるという質ですから、雷見舞のお使にはいつも相役の村上という男をたのんでいたのですが、きょうは生憎にその村上が下屋敷の方へ行って、屋敷に居あわせない。今日とちがいますから、電話をかけて急に呼び戻すというわけには行かないので、よんどころなく自分が引受けて出ることになりました。大次郎も侍ですから、雷が怖いと云って役目を辞退することは出来ません。風が吹く、雨がふる、雹が降る、雷が鳴る、実にさん/″\な天気の真最中に、大次郎は駕籠でのり出しました。本人に取っては、羅生門に向う渡辺綱よりも大役でした。
 屋敷を出たのは、夕七つ(午後四時)少し前で、雨風はまだやまない。とき/″\に大きい稲妻が飛んで、大地もゆれるような雷がなりはためく。駕籠のなかにいる大次郎はもう生きている心地もないくらいで、眼をふさぎ、耳をふさいで、おそらく口のうちでお念仏でも唱えていたことでしょう。本人の雷ぎらいと云うことは、屋敷でも大抵知っていたでしょうが、場所が場所だけに無暗の者を遣るわけには行かなかったのかも知れません。いずれにしても、雷ぎらいの人間を雷見舞に遣ろうというのですから、躄《いざり》を火事見舞に遣るようなもので、どうも無理な話です。その無理からこゝに一つの事件が出来《しゅったい》したのは、まことによんどころないことでした。
 浅草へかゝって、馬道の中ほどまで来ると、雷は又ひとしきり強くなって、なんでも近所へ一二ヵ所も落ちたらしい。雹はやんだが、雨風が烈しいので、駕籠屋も思うように駈けられない。駕籠のなかでは大次郎がふるえ声を出して、早く遣れ、早くやれと急きたてます。いくら急かれても、駕籠屋はいそぐわけには行かない。そのうちに大きい稲妻が又ひかる。大次郎はもう堪らなくなって、一生懸命に怒鳴りました。
「どこでもいゝから、そこらの家《うち》へ着けてくれ」
 どこでもと云っても、まさか米屋や質屋へかつぎ込むわけにも行かないので、駕籠屋はそこらを見まわすと、五六軒さきに小料理屋の行燈がみえる。駕籠屋は兎もかくもその門口へおろすと、大次郎は待ちかねたように転げ出して、その二階へ駈けあがりました。駕籠に乗った侍が飛び込んで来たのですから、そこの家でも疎略にはあつかいません。女中共もすぐに出て来て、
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