お世辞たら/\で御注文をうけたまわろうとしても、客は真蒼になって座敷のまん中に俯伏していて、しばらくは何にも云いません。急病人かと思って一旦はおどろいたが、雷が怖いので逃げ込んで来たということが判って、家でも気をきかして時候はずれの蚊帳を吊ってくれる。線香を焚いてくれる。これで大次郎もすこし人ごこちが付きました。そのうちに雷の方もすこし収まって来たので、大次郎もいよ/\ほっとしていると、わかい女中が酒や肴を運んで来ました。なにを誂えたのか、誂えないのか、大次郎も夢中でよく覚えていませんが、こういう家の二階へあがった以上、そのまゝに帰られないくらいのことは心得ていますから、大次郎は別になんにも云わないで、その酒や肴を蚊帳のなかへ運ばせました。
「あなた。虫おさえに一口召上れよ。」
 女中も蚊帳のなかへ這入って来ました。大次郎も飲める口ですし、まったく虫おさえに一杯飲むのもいゝと思ったので、その女の酌で飲みはじめました。吉原の酒の味も知っている人ですから、まんざらの野暮ではありません。その女にも祝儀を遣って、冗談の一つ二つも云っているうちに、雨風もだん/\に静まって雷の音も遠くなりましたから、大次郎はいよ/\元気がよくなりました。相手も鳥渡《ちょっと》踏めるような御面相の女で、頻りにちやほやと御世辞をいう。それに釣り込まれて飲んでいるうちに、大次郎もよほど酔がまわって来ました。しかし生酔本性違わずで、雷見舞の役目のことが胸にありますから、大次郎もあまり落ちついて御神輿《おみこし》を据えているわけには行きません。好い加減に切りあげて帰ろうとすると、女はなんとか彼とか云って頻りにひき止めました。

       三

 大次郎は悪い家へ這入ったので、こゝの家の表看板は料理屋ですが内実は淫売屋《じごくや》でした。江戸時代に夜鷹は黙許されていましたが、淫売《じごく》はやかましい。とき/″\お手が這入って処分をうけるのですが、やはり今日とおなじことで狩り尽せるものではありません。大次郎は無論にそんな家《うち》とは知らないで、夢中で飛び込んだのです。駕籠屋もおそらく知らないで普通の小料理屋と思って担ぎ込んだのでしょうが、家には首の白いのが四五人も屯していて、盛に風紀をみだしている。そこへ身綺麗な若い侍が飛び込んで来たので、向うでは好《い》い鳥ござんなれと手ぐすね引いて持ちかけると云
前へ 次へ
全120ページ中96ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング