たしのそばには老女が立っていた。老女はもう六十を越えているらしいが、あたまには小さい丸髷をのせて、身なりも貧しくない、色のすぐれて白い、上品な婦人であった。かれはわたしと肩をこすり合うようにして立っているので、なんとも無しに一種の挨拶をした。
「どうも悪いお天気でございますね。」
「そうです。急にふり出して困ります。」と、わたしも云った。
「きょう一日はどうにか持つだろうと思っていましたのに……。」
こんなことを云っているうちにも、雷《らい》はかなりに強く鳴って通った。その一つは近所へ落ちたらしかった。老女は白い顔を真蒼にそめ換えて、殆どわたしのからだへ倒れかゝるように倚《よ》りかゝって眼をとじていた。雷の嫌いな女、それはめずらしくもないので、わたしはたゞ気の毒に思ったばかりであった。実はわたし自身もあまり雷は好きでないので、いゝ加減に通り過ぎてくれゝばいゝと内心ひそかに祈っていると、雨は幸いに三十分を過ぎないうちに小降りになって、雷の音もだん/\に東の空へ遠ざかったので、気の早い人達はそろ/\動きはじめた。わたしもやがて空をみながら歩き出すと、老女もつゞいて出て来た。かれも小さい洋傘《こうもり》を持っていた。
構外へ出ると、雲の剥げた隙間から青い空の色がところ/″\に洩れて、路ばたの草の露も明るく光っていた。わたしも他の人達とあとや先になって、雨あがりの路をたどってゆくと、一台の人車《くるま》がわたしたちを乗り越して通り過ぎた。雨ももう止んで、その車には幌がおろしてなかったので、車上の人が彼の老女であることはすぐに判った。老女はわたしに黙礼をして通った。
三浦老人の家《うち》は往来筋にあたっていないので、その横町へまがる時には、もう私と一緒にあるいている人はなかった。往来が少いだけに、横町は殊に路が悪かった。そのぬかるみを注意して飛び渡りながら、ふと向うをみると、丁度彼の家の門前から一台の空車が引返して来るところであった。客はもう門をくゞってしまったので、そのうしろ姿もみえなかったが、車夫の顔には見おぼえがあった。かれは彼の老女をのせて来た者に相違なかった。
あの女も三浦老人の家へ来たのか。
わたしは鳥渡《ちょっと》不思議なようにも感じた。停車場で一緒に雨やどりをして、たとい一言でも挨拶した女が、やはり同じ家をたずねてゆく人であろうとは思わなかった。勿論
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