、多年の商売の経験で大抵の推量は付く。おまえさんがこの上無理に刺青をすれば、どうしても死ぬに決まっているが、それでも構わずに遣る気か、どうだと云って、噛んで含めるように意見をすると、当人ももう大抵覚悟をしていたとみえて、今度はあまり強情を張りませんでした。
 この時に清吉は初めて彼のお金の一条をうちあけて、自分はどうしてもこの身体に刺青をして、梅の井の奴等に見せてやろうと思ったのだが、それももう出来そうもない。滝夜叉も光国も出来上らないうちに死んでしまうらしい。ついては「嵯峨や御室」の方を中止して、左の腕に位牌、右の腕に石塔を彫って貰いたいと、やつれた顔に涙をこぼして頼んだそうです。源七老爺さんも「その時にはわたしも泣かされましたよ。」とわたしに話しました。
 どうで死ぬと覚悟をしている人の頼みだから、源七も否とは云わなかった。その後も清吉は駕籠で通って来るので、源七も一生懸命の腕をふるって、位牌と石塔とを彫りました。それがようやく出来あがると、清吉は大変によろこんで、あつく礼を云って帰ったが、それから二日ほど経って死んでしまいました。初島の家から報せてやると、梅の井のお金もおふくろも駈けつけて来ましたが、今更泣いても謝っても追っ付くわけのものではありません。菩提寺の和尚様は筆を執って、仏の左右の腕に彫られている位牌と石塔とに戒名をかいて遣ったということです。
[#改段]

雷見舞

       一

 六月の末であった。
 梅雨の晴間をみて、二月ぶりで大久保をたずねると、途中から空の色がまた怪しくなって、わたしが向ってゆく甲州の方角から意地わるくごろ[#「ごろ」に傍点]/\云う音がきこえ出した。どうしようかと少し躊躇したが、大したこともあるまいと多寡をくゝって、そのまゝに踏み出すと、大久保の停車場についた頃から夕立めいた大粒の雨がざっとふり出して、甲州の雷はもう東京へ乗込んだらしく、わたしの頭のうえで鳴りはじめた。
 傘は用意して来たが、この大雨を衝いて出るほどの勇気もないので、わたしは停車場の構内でしばらく雨やどりをすることにした。そのころの構内は狭いので、わたしと同じような雨やどりが押合っているばかりか、往来の人たちまでが屋根の下へどや/\と駈け込んで来たので、ぬれた傘と湿《ぬ》れた袖とが摺れ合うように混雑していた。
 わたしの額には汗がにじんで来た。
 わ
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