にもいう通り、梅の井の家内の者も大勢そこに出ている。喧嘩を見る往来の人もあつまっている。その大勢が見ているまん中で、自分の惚れている女に「刺青がない。」と云われたのは、胸に焼鉄《やきがね》と云おうか、眼のなかに錐と云おうか、兎にかくに清吉にとっては急処を突かれたような痛みを感じました。
 お金のおふくろは清吉やお金を嘲弄するつもりで云ったのではなかったが、お金の耳にはそれが一種の嘲弄のようにきこえる。お金も亦、清吉を侮辱するつもりでは無かったのですが、清吉の身にはそれが嘲弄のように感じられる。つまりは感情のゆき違いと云ったようなわけで、左《さ》らでも逆上《のぼ》せている清吉はいよ/\赫となりました。そうなると男は気が早い。物をも云わずにお金の島田をひっ掴んで、往来へ横っ倒しに捻じ倒すと、あいにくに水が撤いてあったので、お金は可哀そうに帯も着物も泥まぶれになる。それでも、利かない気の女だから倒れながら怒鳴りました。
「清ちゃん、あたしをどうするんだえ。腹が立つなら寧《いっ》そ男らしく殺しておくれ。」
 清吉はもう逆上《のぼ》せ切っていたと見えて、勿論、ほんとうに殺す気でもなかったのでしょうが、うぬっと云いながら又ぞろ自分の下駄を把《と》ったので、梅の井の人達もおどろいて飛び出して、右左から清吉を抱き縮《すく》めてしまったが、こうなると又おふくろが承知しない。
「清ちゃん、なんだって家《うち》の娘をこんなひどい目に逢わせたんだえ。刺青《ほりもの》が無いから無いと云ったのがどうしたんだ。お前さんはなんと思っているか知らないが、これはあたしの大事の娘なんだよ。指でも差すと承知しないから……。巫山戯《ふざけ》た真似をおしでないよ。」
 お金と清吉との関係を万々承知ではあるけれども、自分の見る前で可愛い娘をこんな目に逢わされては、母の身として堪忍ができない。こっちも江戸っ子で、料理茶屋のおかみさんです。腹立ちまぎれに頭から罵倒《こきおろ》すように怒鳴り付けたから、いよ/\事件は面倒になって来ました。清吉も黙ってはいられない。
「えゝ、撲ろうが殺そうが俺の勝手だ。この阿魔はおれの女房だ。」
「洒落たことをお云いでない。おまえさんは誰を媒妁人《なこうど》に頼んで、いつの幾日に家のお金を女房に貰ったんだ。神明様の手洗い水で顔でも洗っておいでよ。ほんとうに馬鹿々々しい。」
 おふくろは
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